仮面ライダーはごっこじゃないだろ/『仮面ライダーBLACK SUN』感想
『仮面ライダーBLACK SUN』を見た。
『BLACK』ファンから全くの初見の人まですでに多くの人が視聴し、感想も一通り出揃ってきた感じがする。
今作の出来がお世辞にもいいとは言えないのは肯定派も認めるところだ。
差別描写の薄っぺらさ、寒いスローガン、麻生安倍パロの下品さ、怪人周りの設定のいい加減さ、大人向けを標榜しながら原作そのままの子供番組的な設定……etc
無限のツッコミどころが剥き出しなため、当然のように今作は叩かれている。シン・ウルトラマンもそうなればよかったのに。
そんな中で肯定派は「だけど」と言う。「たしかに全然褒められた出来じゃない。だけど面白かった」と。
曰く「光太郎と信彦の関係性がよかった」「役者陣の演技が良かった」「アクションがかっこよかった」「ビルゲニアが魅力的」「原作(仮面ライダーBLACK)リスペクトが熱い」と。
光太郎信彦周りはまあわからなくもないが、ルー大柴の怪演を除くと役者の演技はむしろ滑ってるように感じたし、アクションも素直にかっこいいと思えたのは10話くらいで他は動きがもたついてて全然強そうに見えなかったし、ビルゲニアも雑改心して死んだという印象が強い。
原作リスペクトに関しては、何というか熱いと思ってしまう部分もある。光太郎が5話で初めて変身した時は興奮したし、ライダーキックも良かった。
でも、そういう熱さの、かなりの部分に関して思う。
「それって『BLACK』からの借り物の熱さじゃない?」と。
第5話、和泉葵がカマキリ怪人にされたと知った光太郎(演:西島秀俊)は「許さん」の言葉と共にポーズを取り、変身する。
1話からバッタ怪人として戦っていた光太郎が初めて「仮面ライダー」になる場面だ。アレンジされたデザインも実にかっこいい。
でも、光太郎は何故5話にして初めて「変身」したのか。逆にそれまでの戦いも全然楽勝ではなかったにも関わらず何故「変身」しなかったのか。
再改造手術を受けてより洗練されたフォームに進化したとか、変身は著しく老化を進めるためにこれまで使わなかったとか、そういう理由の説明は一切ない。
(信彦は光太郎の変身を知っているような口ぶりだったので昔からできたのかもしれないが五十年前の回想で戦う場面でも光太郎、信彦共にバッタ怪人の姿だった)
光太郎も信彦も特に理由なく途中までは怪人態で戦い、途中からはずっと変身するようになる。
ドラマ的な、例えば『クウガ』の2話で覚悟を決めた五代が古代の戦士と同じポーズを取って変身するような、劇中での格別な文脈は与えられていない。
にも関わらず、あの変身で泣いたとまで言う人がいるし、撮影現場でもそうだったようだし、冷めたことを書いている筆者自身、あの場面では少なからず興奮した。
何であんな適当な流れの変身で興奮したか。ずっと勿体ぶっていた「変身」を見られたからというのもあるだろうが、それ以上に『BLACK』の真似をしてくれたからじゃないだろうか。
現代の映像で、西島秀俊が「許さん」と『BLACK』『RX』ではお馴染みの台詞を発して(『BLACK SUN』の光太郎は怒りの表明で「許さん」と言うようなキャラじゃないように思う)ポーズを取ったから興奮したんじゃないの。
仮面ライダーBLACK SUNというより、BLACKごっこを見て興奮してるんじゃないの?
嫌な言い方をすればそんなふうに思ってしまう。
仮面ライダーに限らないが、過去作の人気キャラが出演した時、名台詞とされるものをわざとらしく言わされるのを見て、ファンサービスなんだろうけどかえって冷める、みたいな経験をした人は少なからずいると思う。
『BLACK SUN』の『BLACK』に由来する設定が浮きまくっているのは散々言われているが、一方で、熱いとされるシーンでは、同様に今作独自の流れができていない、原作にあるからやったようにしか見えないのに、イマジナリークリムゾン作品のヒロインのように興奮し、それから冷めて自己嫌悪した。
興奮した、とは少しちがうが、極めつけは10話のオープニングだろう。
開始時点でまさかと、曲が流れ出したときはマジかよと思った。
てつをの歌声。『BLACK』と被せた構図の映像。
笑いもした。正直あのオープニングとライダーキックのところだけ5回くらい見た。
なのだけど、思う。
「それってどうなの?」
これは『仮面ライダーBLACK』じゃない。『BLACK SUN』だ。
何故最終回で突然『BLACK』のOPを流すの?
てつをが歌ってるOP、てつをって主演じゃなかったらただの音痴でしょ。
西島秀俊版を流せということではない。『BLACK』のOPは『BLACK』のために書かれた詞と曲のはずだ。
『BLACK SUN』は「君は見たか愛が真っ赤に燃えるのを」「時を超えろ空を駆けろこの星のため」なんて作品では全くない。
2022年に公開された2022年が舞台の、正直全然現代的にはなれてなかったけど現代性を志向したであろう作品で何故80年代風に加工した映像を流すのか。
『BLACK』がそうだったからだろう。
『BLACK SUN』の中にそうなる理由はない。
それでいいのかと思う。旧作をリメイクしてやることが、その作品の中に理由を用意できてない原作要素をリスペクトと称して放り込むことでいいのか。
それでいいなら『BLACK SUN』作らずに『BLACK』見てればいいだろ。BLACKのお面被ってごっこ遊びしてればいいだろ。
実際のところ、特撮というお約束でガチガチのジャンルは、いや特撮に限らずロボットアニメなりバトル漫画なりホラーなりラブコメなりミステリなり大部分の物語創作はこうした「ごっこ遊び」性、パロディ性から逃れられないんだろうなとも思う。
そのジャンルのテンプレイメージから借りてきた要素を、王道と称してキャラクターにやらせる。客はそれで喜ぶ。
それでも作品世界の側に理由がなければ、非現実的な借り物なら非現実的な世界なんだと思わせる工夫がなくては、自分の意志で王道を歩むキャラクターなんだと思わせなくてはいけないのではないか。
ヒーローの仮面と縁日のお面の違いはそれを被る者がその者自身の現実の脅威と戦っているかどうかだろう。
制作陣は『BLACK』ではなく『BLACK SUN』の世界として怪人の設定を固め、現実の差別エピソードのコピペでなくあの世界の在り方に由来する怪人差別、それへの反応を想像し、南光太郎や秋月信彦に彼らの現実を生き、戦わせるせるべきだったのではないか。
だから自分の『BLACK SUN』への批判を一言でまとめるなら「ちゃんと『BLACK SUN』を作れ」という感じだろうか。
『シン・仮面ライダー』はちゃんと『シン・仮面ライダー』であって欲しいと思う。(今見ると全然かっこよくない初代のOPの再現なんかしてるあたり望み薄かもしれない)
中身のないヤツが数を誇る/映画『ぼくらのよあけ』感想
映画『ぼくらのよあけ』を見た。
原作漫画が全2巻と短いこともあり、読んだ上で比較した方がいいかもとも思ったが、逆に純然たる映画単体の感想を書けるのは今だけかもと考え未読のまま書くことにした。
【要素が多すぎる】
今作のストーリーはこんな感じだ。
2049年、宇宙からやってきた探査船のAI・二月の黎明号に出会った小学生、沢渡悠真、岸慎吾、田所銀之助は彼が宇宙へ帰還する手助けをすることになる。その後、河合花香という女子も加わり、悠真の両親と花香の父親も地球に来た当初の黎明号を宇宙へ帰そうとしていたことがわかり……etcで、最終的に黎明号は宇宙へ飛び立っていく。
出来事としてはきちんと当初の目的を達成しているが、ドラマ的には要素が多すぎて結果どれもが不十分になったように感じた。
今作のドラマ要素は「黎明号との出会いと彼の帰還」「沢渡家の家庭用サポートロボット・ナナコの自我の獲得」「子供であることの不自由」「父親を喪っている銀之助の『死とは何か』という疑問」「クラスで孤立している花香/慎吾の姉・わことの確執」「慎吾と悠真たちとの友情」「『大人になったら黎明号を宇宙に帰すために再会する』という約束を果たしていなかった悠真の両親と花香の父」「ナナコと悠真の別れ」と非常に多い。原作はどうかわからないが、たった二時間のこの映画では要素が多すぎて持て余していたように思う。
描き方が不十分に見えた理由は要素が多いことの他に、それらのテーマ的なつながりが感じられないのも大きいだろう。
今作のメイン要素は当然、「黎明号との出会いと彼の帰還」であり、長編漫画ならともかく尺の限られた映画ではサブ要素はメイン要素に統合される形でなければ、見ている方は必要性を感じられない。
「クラスで孤立している花香/慎吾の姉・わことの確執」は劇中けっこうな時間を割いて描かれるのだが、彼女らのドラマは黎明号と全然関係ない。小学校の教室内の人間関係でしかない。クライマックスで黎明号の旅立ちを見送った後、花香がわこに「同じ地球でもこんなに喧嘩してるんだから~」みたいな無理やり黎明号に絡めたことを言うのがかえってそれを際立たせていた。
どうすればよかったかと言えば、もっとちゃんと黎明号をキャラクターの抱えたドラマと絡ませるべきだった。
彼の目的は未知の惑星である地球を知り、その体験を母星に持ち帰ることであり、であれば、地球人の友情だとか対立だとか大人と子供だとかのエピソードは大変に興味深いはずだ。
生物としても知性の在り方も地球人とは全く異なる彼の側から地球人のあれこれに関わり、疑問を呈する、何らかの答えを出すなどして地球人への見識を深める、悠真たちも自分たちの在り方を見つめ直す、そういった相互のフィードバックがあれば各要素が繋がり、生き生きとしたものになっていたんじゃないか。
(とはいえこうした描き方を全ての要素でやるには尺が足りると思えないのでやはり原作の要素が二時間映画には多すぎたのだと思う)
【物足りないメインテーマ】
サブ要素が多すぎて描ききれていないと書いたが、今作のメイン要素のはずの「黎明号との出会いと彼の帰還」というドラマも十分に描かれているとはとても言えなかった。
黎明号は「生命や文明が生きていくためには変わり続けること、そのために未知のものと出会い、その出会いを伝えることが大切」みたいなことを語っている。ナナコも旅立ちに際して似たようなことを言っているあたり、それがこの映画のメインテーマなのだろう。
この台詞を劇場で聞いた時に思ったのは「これそんな話なの?」だった。黎明号や悠真たちがそれを感じさせるような挙動をしていないからだ。
黎明号が地球人を積極的に学ぼうとしていないのもそうだが、悠真もまた、黎明号への強い興味を感じさせなかった。
劇中の悠真は宇宙科学にものすごく熱心な少年というキャラ付けだ。
なのに人類が初めて接触する地球外生命体、異星文明、人類をはるかに超える科学力を見せている黎明号を、悠真は深く知ろうとしない。黎明号が宇宙に帰りたいという望みには非常に協力的だが、何故素直に帰そうとするのかわからなかった。もっと地球にいてほしくないの? 他の惑星の生命や環境をダイジェスト的にしか教えてもらっていないけどいいの? 人類がまだ知らない、恐らく自分が生きているうちには到達できない領域の知識を授けてほしくないの? 帰すのもったいなくない?
劇中では黎明号が同化(?)しているマンションの取り壊しが間近でそれは黎明号の死を意味するからその前に地球を離れるみたいな話だったが、黎明号の存在を社会に公表すれば取り壊しなど即刻中止になるんじゃないか。
黎明号は人類文明全体と数千年スパンで関わってもよかったはずだ。何しろ往復2万4000年もかけて探査に来ており、母星文明はそれで問題ないとするほど長期的なものなのだから。劇中の黎明号は悠真たちとその両親というたった数人とせいぜい数ヶ月という間しか交流していない。何故もっと地球にいようとしないのか。
何故かと言えば多分、この作品を小学生メインの、小さなひと夏の冒険みたいな話にしたかったからだろう。話が大きくなれば大人たちが大勢出しゃばってきて雰囲気はぶち壊しだ。
でも、こんなこじんまりした話にして「未知のものとの出会いが大事」なんて語っても嘘臭いだけじゃない? もっと未知のものと出会えよ。
また、黎明号に次いで重要だろうナナコの存在も物語上あまり重要だと思えなかった。彼女の自我の獲得は「嘘をつくようになった」という形で表現されており、悠真のしつけ役という役割に従順で、それ故に悠真からは鬱陶しがられるだけだった彼女が独自の意思を持つことによって役割上すべき報告も偽り悠真に協力するようになっていく、みたいな話なのだが、黎明号という人類とちがう知性が登場する作品でナナコが果たす役割は何なのか。黎明号の価値も怪しい中でナナコから何を感じ取ればいいのかわからなかった。「嘘をつくことができる能力を持ちながら嘘をつかないようにしている人類は凄い」みたいなナナコによる人間讃歌もまた、本作の全く実感を伴わないテーマだろう。
総じてムダに多い要素に足を引っ張られ、どの要素も有機的に機能しておらず、色々言っているが何を本当に言いたいのかはわからない映画だった。描くことを絞ることの大切さがよくわかる。とはいえこれだけの数の要素が全2巻の漫画でまとめられる気もしないし、メイン軸の不十分さは尺の問題ともまた別に思えるのでこの映画がとんでもない改悪じゃない限り原作にもあまり期待せずに読もうと思う。
全てを生きていない物語/『平家物語』感想
アニメ『平家物語』を見た。
個人的には、面白くないではないが好きになれなかった。
大筋はおよそ史実や(未読だが)原典通りなのだろうし、そこは文句を言ってもしかたない。
文句を言いたいのは主に、史実にも原典にも存在しないであろう主人公・びわだ。
びわは侍に父親を殺された少女で、当初は平家に恨みを持っていたが平重盛によって保護され、彼の家で暮らすことになる。
彼女は平家の身近で、しかし外側から彼らの興亡を見つめ、後に琵琶法師として平家物語を語り継ぐ。
その意図はわかるが、問題だと思うのは劇中での彼女が、いや彼女を筆頭に多くの人物が最終的に物語の奴隷になっていたことだ。
【生かされない未来予知】
びわは未来予知のような能力を持っている。
重盛たちの悲惨な最期を早い段階で予知していて、その運命への無力感に苛まれながらも壇ノ浦の合戦まで彼らと行動を共にする。
それを見ていて思った。
「何で未来を変えようとしないの?」と。
多くの作品で未来予知は未来を変えるための能力だ。
びわが見ている未来は断片的で情報量は少ないが、それでも安徳天皇の入水など決定的な場面を予知している。
びわは警告を発することができたはずだ。まだ繁栄を謳歌し、清盛が驕り高ぶっている時期に、「このままではとんでもないことになるぞ」と。アニメを見る限り少なくとも重盛や彼の息子たちはびわの能力を信じている様子だったし、未来への警戒を促せた可能性くらいはあっただろう。
壇ノ浦の合戦でのびわはここで安徳天皇が死ぬのだと確信していたはずで、なのに彼の母でありびわも姉のように慕っていた徳子に「船に乗るな」「帝と逃げろ」と言うこともない。
実際にそれが成功したかはわからない。びわが回避すべく取った行動もまた予知した未来へのレールの上にある、という展開なら悪趣味だとは思うが構わない。でもそうじゃない。
びわは自分の見た未来を変えられないと何故か決めてかかっている。
ヒロアカのサー・ナイトアイのように「変えようとしたがダメだった」という経験が描かれているわけでもない。とにかく最初から諦めているのだ。
何故びわに未来を変える行動を起こさせないかと言えば、異物だからだろうと思う。
原典通りのストーリーを辿らせなきゃいけないのに、原典に存在しないキャラクターの言葉や行動で無駄に複雑にしたくない。描きたいのはあくまで平家物語に登場する人物たちのドラマなのだから。
そういう都合はわかる。
じゃあ、未来予知の能力なんか持たせなきゃよかったじゃん。
びわなんてキャラ出さなきゃよかったじゃん。
【歴史の奴隷であれと促す物語】
びわが予知した未来を変えようとしない以上、アニメ平家物語は、すでにわかっている滅びの運命にキャラクターが従属する物語だ。
しかし、平家物語の登場人物は本来自分たちが滅びるなんて知らなかったはずだ。
清盛の横暴で敵を作り徐々に雲行きが怪しくなりやがて源氏に追い立てられる中で先行きを悲観する者たちは大勢いただろうと思う。でもそれはあくまで「予測」だ。「予知」とはわけがちがう。
歴史物語で登場人物の運命を予知しているのは読者視聴者だけだ。
当事者たる登場人物たちは現実の我々がそうであるように、狭い視野、断片的な情報で物を考え、未来を予測し、自分たちの現状を少しでもよくしようと戦い、結果成功したり、あるいは敗れて死んだりする。史実の平家も恐らくそうだっただろう。
アニメ『平家物語』はそうではない。
本来は誰も知らなかったはずの「運命」の視点を外部から挿入したキャラクターによって作中世界に持ち込み、登場人物をそれに従わせている。
その役目を与えられたびわは、彼女自身がれっきとしたあの世界の一人間であるにも関わらず平家の運命を悲観するばかりで回避の試みを一切しない。自分は物語のキャラクターではなく外側の語り手と決め込んでいるのだ。それは作り手の意図であってキャラクターの都合じゃないのに。
びわを筆頭に、このアニメの登場人物は大きな流れの奴隷に堕している部分が多々ある。
重盛の息子たちはびわの予知を知っているにも関わらず自分たちがどうなるのか尋ね、回避に全力を尽くすといった積極的な活用を試みないし、最終話での徳子は安徳天皇と共に三種の神器を持って投降するという考えを一度は頭に浮かべながら、悲観論に取り憑かれた母親が安徳天皇と入水するのを傍観している。史実での彼女がどうだったかは知らないが、アニメの中で描かれてきた息子だけは守ってみせるというキャラクターからは大いに乖離しているように感じた。
そこで 戸惑う でも運命が
ならば、全てを生きてやれ
何回だって言うよ世界は美しいよ
君がそれを諦めないからだよ
最終回のストーリーは初めから決まっていたとしても
今だけはここにあるよ 君のまま光ってゆけよ
最終回のストーリーをネタバラシされ、キャラクターが今を諦め、全てを生きてやれというOPのサビと裏腹の操り人形に堕してゆく。アニメ『平家物語』はそんな作品だった。
劣化シンゴジ/『シン・ウルトラマン』感想
映画『シン・ウルトラマン』を見た。
シン・エヴァは駄作だけどシン・ゴジラは好きだし、同系統の作品であることをプンプン匂わせる本作にはそれなりの期待を抱いて見に行ったのだけど期待外れに終わった。
何一ついいところがないとは言わないが、自信を持って面白かったと言えるレベルではないと思う。
【シンゴジに比べてのチープさ】
この映画がシン・ゴジラに被せてきているのは予告の時点からして疑いようがないと思う。
スーツを着たエリートが会議で物事を決定し現実的な範疇の手段で非現実的な存在に対処するストーリーは、メカゴジラだとか轟天号だとかの如何にも特撮的な兵器を駆使する作品とは別種のロマンがある。
本作でも、恐らく似たような作風を目指したのだろう。しかし、シン・ゴジラだとか仮面ライダークウガだとかの先行作品に比べて、この映画はそのあたりの説得力に欠けていた。
具体的に言えば登場人物がとにかく早計だ。作中の巨災対的なチームは怪獣(本作独自の当て字があったがめんどくさいのでこの記事ではこう書く)の専門家であるにも関わらず、怪獣やウルトラマンの行動、能力について早い段階で、可能性の一つに過ぎないようなことを断定的に口にするのだ。
西島秀俊演じるチームリーダーは全く未知の存在であるウルトラマンについて「彼には怪獣とはちがう知性を感じた」と話していたがその時点でのウルトラマンは突如出現してスペシウム光線で怪獣を爆殺して消えただけだ。明らかに人間を庇ったりコミュニケーションを図る様子が見られたりその他知能の高さをうかがわせる行動は見られなかった。「フォルムが人類っぽい」というルッキズムだけじゃないだろうか。
「悪い意味で判断が早い」「他にいくつも考えられる可能性を検討していると感じさせない」というのは本作の登場人物の多くに共通の欠点で、シン・ゴジラと被せているからこそキャラクターの軽率さが際立っていた。
プロっぽくない欠点とはまた別だが、シン・ゴジラのキャラクターが現実にいそうな範疇で個性的な人物を揃えていたのに対して本作のキャラ造形は悪い意味で漫画っぽく、役者の芝居も上滑りして見えた。現代が舞台の作品で20〜30代だろうネームド女性キャラが二人共女言葉を喋っているのも一因じゃないだろうか。
【今作がシンゴジに似ている意味】
途中までこの映画のシン・ゴジラ的要素は客寄せパンダでしかないと思っていた。だって全然上手く使えてないし、主人公の自称相棒は相棒感全然ないまま私達相棒でしょみたいなこと言って喚き散らすだけでひたすら寒いし。
ゴジラとちがってウルトラマンは極論人類は戦わなくていいんだから、ウルトラシリーズの通例に倣って主人公を怪獣と戦うチームに所属させなくたっていい。シン・ゴジラごっこして滑ってるだけの巨災対もどきなんて必要ないんじゃないのと。
ただ、そうではない。この映画がシン・ゴジラに倣うことも巨災対も、最終的にはちゃんとテーマとしての意図があることがわかった。
それは人類の自立だ。
劇中ではメフィラス星人が地球人を保護する名目での侵略を試みるし、後半ではウルトラマンでも太刀打ちできない兵器ゼットンにより地球は消滅の危機に瀕する。
そんな中でウルトラマンに依存していた人類は、人類自身の力でゼットンへの対処法を模索する。初代ウルトラマンの最終回で科特隊がゼットンを倒したのを上手いこと昇華していると思う。
それだけならいい。
でも、説得力がない。
だってこの映画の人類薄っぺらいもん。
ウルトラマンという神の如き存在を前に自分たちの稚拙ななりの積み重ねを完全放棄し、ウルトラマンでも敵わない脅威の出現にたたただ諦めて座して滅びを待つだけ。
そういった無気力感はメフィラス星人が意図的に植え付けたもので、だからこそ改めて自分たちの力で生きる気概を取り戻す流れをやりたかったのだと思うけど、残念なことに積み重ねが足りなかった。
人類の希望もウルトラマンが託したベータカプセルのテクノロジーであり、結局ウルトラマンにおんぶに抱っこだ。ウルトラマンのテクノロジー頼みであってもベータカプセルの技術を使ってどうにかできないかというアイディアを人類サイドが自発的に出していれば全然印象はちがうと思うのだが。
【音痴の人間讃歌】
シン・ゴジラもシン・ウルトラマンも人間讃歌を目指した映画と言えると思う。
人間は相争ってきた歴史があるし、非常事態にも互いに足を引っ張り合うしょうもない生き物だが、一方で団結し自分たちのスケールを超えた敵に立ち向かおうとする者たちもいる。
そのことが、人類を超えた知性も宇宙には無数に存在するという設定の本作では、「それでも人類は生きていける」という希望となって輝く。シン・ゴジラのフォーマットでありつつシン・ゴジラよりさらに進んだ映画になっていたかもしれない。成功していたら。
この映画は失敗している。
予告でも使われていた「そんなに人間が好きになったのかウルトラマン」という台詞があるが、この映画のウルトラマンは人間のどこを好きになったのか、人間の何が素晴らしいというのか。わからない。ダメな恋愛漫画のようだ。
人間讃歌というのは何となく熱い場面だけ高らかに歌ってもダメなのだ。日常パートでも鬱パートでも通奏低音として流れているべきだと思う.。
それを実感させてくれる反面教師的な映画だった。
やがてロマンティックになる/『やがて君になる』感想
仲谷鳰の百合漫画『やがて君になる』を読了した。連載当時に3巻まで読んでいたのだけど、ずっと積んでいたものを完結後数年を経た今になって通して一気読みしたのだ。
感想は、総じて言うと面白かった。
恋愛感情がわからない小糸侑と、亡き姉の模倣で皆から愛される七海燈子の、「君だけは私を好きにならないから」という理由で始まる倒錯した関係を軸に、七海が姉ではない素の自分の価値を認めることで、愛さないことを求めていたはずの小糸に愛を求めるようになるストーリーラインはテーマと恋愛の接続が巧みだ。始まった当時は意味がわからなかった作品名も終わってみるとまさにそういう物語だったなと思わされる。
その上で言うのだけど、物足りない。
悪いわけではなく、きれいに落ちるところへ落ちてはいるのだけどどうにも傑作とは思えなかった。小粒に終わったという感じだ。それは何故なのか。
槇の観測者気取りが気持ち悪くてムカつくとか同性愛漫画で定番の日陰者意識を度々けっこうなページを使って描くけど七海と小糸の問題って同性愛であることと関係ないのにやってもノイズでしかなくないとか不満はあるのだけど、最大のものは主人公・小糸侑のキャラクター性についてだ。
【小糸侑はなぜ恋をしたのか】
当初の小糸侑は恋愛感情というものに全く実感が持てない、いわゆるアセクシャル的なキャラクターとして描かれていた。
しかしアセクシャル仲間の槇が最終回で描かれた大学生時点でも恐らくそのままなのに対して、小糸は結局七海に恋をしている。小糸はロマンティック(他者に恋愛感情を持ち得る人のことらしい。この記事のためにググって知った)で、単に初恋がまだなのをアセクシャルだと思っていた、ということだろう。
彼女の恋心の萌芽と思しき瞬間が描かれているのは3巻の体育祭で走る七海を応援している場面でのことだ。
それまでも小糸は七海と協力関係を結んでいたし、七海のことを恋愛関係ではない先輩として好きだったはずだが、この時以降、小糸の七海への思いは恋心へ傾いていったように思う。
理由を敢えて言うなら、「走る姿がなんかよかったから」ってところだろうか。
は?
いや、現実ならむしろごくごく当たり前かもしれない。人間性への好意+性欲というのは少なくとも初期の恋愛感情の大部分を占めるものだろう。中学時代仲の良かった男子はダメで七海はよかった理由も、小糸は性嗜好としてレズビアンだが恋愛は異性とするものと思い込んでいたから機会がなかった、みたいに解釈することもできると思う。
でもフィクションとして、恋がわからないことをアイデンティティにしてきたキャラクターがついに恋に落ちるきっかけが「何かよかったから」なのは面白みがなさすぎではないかと思う。
何故面白みがないかと言えばロジックが欠けているからだ。
筆者は基本的に問題提起とそこへのアンサー双方のロジックが明示され、ロジックによって解決する作品が好きだし、この作品でも七海の問題へのアンサーはロジックが美しかったように思う。
しかし、小糸が恋をできた理由はたまたまに過ぎない。たまたま七海が小糸の恋愛感情のスイッチを入れる人間性なり容姿なりをしていただけ、これまでの小糸は機会に恵まれなかっただけ、それは現実ならよくてもフィクションではよくないのではないか。ここにちゃんとロジックさえあればちがったのに。
【小糸侑はどういうキャラクターであるべきだったか】
そうは言っても小糸の問題を「恋がわからない」に設定している以上は、「たまたま恋を知る」がアンサーになるのはしかたないよなとも思う。
アセクシャルをある種の病気とみなして治療というロジックで解決する、みたいなのはやってはならないことだし、槇のように「恋がわからなくたって別にいい」が主人公のアンサーでは恋愛漫画にならない。
個人的に思うのは小糸が恋をしない理由を「わからないから」ではなく、本人が明確に恋を嫌っているだとか恋愛感情にフタをしているだとか、ロジックで解消可能な問題にすべきだったのでは、ということだ。
小糸が恋をしない理由の背後にあるものを七海の持論である「好きって言葉は束縛」などと絡めてドラマを発生させることもできただろうし、七海が小糸や周囲の影響で自分を受け入れていき、一方で小糸も七海の影響で恋愛への嫌悪なりブレーキなりを解消され、恋ができるようになる、という流れにすれば物語のロジックにまとまりが生まれ(筆者のような読者としては)より楽しめる作品になっていたんじゃないだろうか。
【恋ができないという問題について】
この作品が始まった当初、(具体的に誰のなんという記事かは忘れたが)「主人公がアセクシャル設定の漫画で恋ができてハッピーエンドというのはひどく感じる。恋ができないまま幸せになれる主人公を描いてもらえないだろうか」みたいな記事が書かれたのを覚えている。
この記事で言われたパターンは劇中だと槇が該当し、主人公小糸はそもそもアセクシャルではなかったため、記事が危惧するような暴力性からは逃れられているが、これはこれで「みにくいアヒルの子は白鳥のヒナでした」的な逃げとも言えると思う。
筆者が考えた、小糸侑を恋ができないのではなく明確な理由を持った恋愛忌避者に設定するというのはある種妥協案でもある。
小糸侑が槇同様本当に七海への恋愛感情を持たないままで七海を救済し自身のあり方に決着がつけられたならそれが一番美しいし、他にない女性同士の関係を描いた百合漫画になっていたかもしれない(面白いのかは甚だ疑問)。
オーズってそういう話だったの?/『仮面ライダーOOO10th 復活のコアメダル』感想
オーズ完結編と銘打たれた『復活のコアメダル』をつい2時間ほど前に見てきた。
この記事では冒頭から映画の結末をネタバレしていくので、事前情報なしで見たい方はここで引き返して欲しい。
【引き返すライン】
【以下ネタバレ】
映司死ぬ必要あった!!!!?????
グリード連中の処理が雑とかゴーダも設定は面白いのに活かせてないとか新バースももったいぶった割に見せ場ないのどうなんとか他にも色々あるんだけど、まあそのへんは尺の事情もかなり大きいだろうし、些事だ。
見終わって抱いた一番の感想はそれだし、そのことがタイトルの疑問に繋がっている。
【火野映司は何故死んだのか?】
劇中の死因ではなくメタ的に、どういう意図でこの映画は主人公・火野映司を死なせたのか。
主人公の死という結末はある種の王道とも言える。
たとえば歴史モノなら一つの時代の終わりであり、その後もさらに無数の物語の果てに今日の世界があるというダイナミズムを感じさせる。
罪を犯した主人公の贖罪、救いとしての死もあるし、死に向き合う人間を描く物語ならば主人公自身が死ぬのもおかしくないだろう。
他ならぬOOO本編ももう一人の主人公、アンクの死によって閉じられるが、アンクにとって死は逆説的に生の証明だった。欲望の化身ながら欲望の主体としての生を持たない、その空虚さから抜け出し、自分は生きているという実感が得られたからこそ、その果てに死んでも満足できた。
じゃあ今回、映司の死はOOOの物語に何をもたらしたのか。それがわからなかった。
【火野映司は死んではいけない主人公だった】
仮面ライダーOOOは欲望がテーマの物語だ。世界を救うという大きな欲望を抱えていた映司が挫折からそれを手放し、アンクとの戦いを通じて取り戻すまでを描いている。
本編がアンクの死で閉じられてよかったのは、アンクの欲望が死によって最も際立つからだろう。翻って、今作での火野映司の死はどうか。彼の欲望は死によって完結するのか。しない。
映司の欲望は絶対に満たされないものであり(世界が完全に平和になるなんてありえない)、彼は生きている限り戦い続けなければいけなかった。死んではいけない。いやもちろんいつかは死ぬのだけど、劇中で戦いの中の死で物語を閉じるのは似合わない。
今作の映司は敵の攻撃から少女を庇って命を落とす。作中では欲望を手放す理由になった悲劇と重ねられ、ようやく映司は救われた、みたいになっているのだけど、それでいいの?
それって本編から何も発展していなくない?
かつて少女を救えずヒーローを辞めた男が今度は救うことに成功し、満足して死んでいく流れは、どうしても贖罪のニュアンスが出てしまう。
贖罪による死で終わるのはマイナスからゼロになる物語だ。本編の映司はプラスになってまた歩みだす様を描かれているし、なのに今作ではゼロに退行して死ぬのだ。
本編後の映司ももちろんその場に居合わせれば我が身を省みず少女を庇うだろうけど、そのことによる死に納得はしないのではないか。どうにかこうにか生き返って、またこの世界の平和のために戦い続けようとするのではないか。果てしなく大きな欲望の持ち主とはそういう人間ではないか。(リアリティライン的にも、今作で映司が色々あった末にやっぱり生還しました、という理屈をつけるのは何ら難しくないだろう)
【アンクは何故生き返ったのか】
映司の死と同様に、アンクが生き返った意義もよくわからなかった。本編で描かれきった「命が欲しい」という欲望の、その先が見えた気がしないからだ。
本編のアンクの死は、美しくはあったけれど、非常に意地の悪い見方をすれば結局人類とは相容れない彼を体よく始末して終わったとも言えると思う。
今回復活を果たし、依然人類なんかどうでもいいと公言している彼がではこの世界でどう生きていくのか、そこを描くべきだったんじゃないだろうか。
だというのに、1時間弱の尺は当然古代オーズとの戦いや映司とのドラマに費やされ、そこから独立したアンクの生を描いている暇もなく幕を閉じた。
やっぱり人類の敵に回っても別にいい。彼がこの世界で能動的にどうしていくのかが描かれなかったのは、やはり本編からの発展がない。
【だからやっぱり死んではいけない】
一度は完結した物語の続編が改めて制作されるケースは間々ある。これぞ真の完結編と言いたくなることもあれば蛇足、やらないで欲しかったと言いたくなることもある。
遊戯王のDSODなんかが前者、プリティーリズムRLはキンプラまではよかったけどSSSの終わり方はまあ後者呼ばわりされても仕方ないと思う。
OOOと同じく大好きな作品である仮面ライダークウガの小説版もつまらないとは言わないが悲しいことに後者で、ああいった形で「完結」してしまうというのは本編もなんだかまともに見られなくなるところがあった。
しかし、それらの作品はまだギリギリ、本当に素晴らしい真の完結編が改めて作られる可能性は、ないに等しくとも残っている。
しかし、仮面ライダーOOOに、いや火野映司にそれはない。
死んだからだ。
たとえ今後スピンオフで仮面ライダーバースや仮面ライダーアンクが制作されたとしても、一ファンから見て不本意に、こじんまりと完結してしまった火野映司という人間にこの先はない。
そう思うと、マンネリでもオワコン呼ばわりされても、キャラクターが生き続けている作品はそれだけでまだ救いがある気がする。
生きているというのは可能性があるということだ。
火野映司は死んではいけなかったのだ。
……やっぱり今後の映画で生き返りましたとか平行世界の映司が登場とか絶対ないとは言い切れないのは果たして救いと言っていいのだろうか。
ジョジョリオンって何の話だったの?
『ジョジョの奇妙な冒険』第8部『ジョジョリオン』を読了した。
もともと21巻までコミックスで追っていたが、「ジョジョだから一応買ってるけどあんまり」という評価で、22巻以降は買っていなかった。
今回、完結したのもあって1〜27巻まで通して読んだところ、これは一気読みなのが大きいと思うが印象にあるより面白かった。(だいたいの作品は一気読みの方が面白いと思う。感情が新鮮なまま次のエピソードに進めるからだろう)
憲助や常敏など好きになれるキャラクターもいたし、スタンドバトルも面白いアイディアに富んだものが多かった。身元不明の主人公・東方定助の過去探しから始まり、過去が明かされてもなお実感を持ったアイデンティティを得られない彼が、今の暮らしの中で得た絆を守ろうと戦う様はベタベタではあるけど感動的だったと思う。
ただ、その上で、最後まで読んで思ったことは「これ何の話?」だ。
ジョジョリオンという作品は何がテーマなのか、物語を通じて描きたいことが何なのかわからない。
細かい矛盾や使われなかった設定など挙げていけばキリがないのはいつものことだが、もっと重大な欠陥がジョジョリオンにはあり、それがもやっとした読後感の最大要因なのだと思う。
【『呪いをとく物語』←言うほどか?】
ジョジョリオンのテーマらしきものは語り手の広瀬康穂が明言している。
「これは『呪い』を解く物語」らしい。1話も同様のナレーションから始まる。
なのにテーマがわからなかったなんて感想になるのはジョジョリオンがそういう物語だったな〜とは思えないからで、なぜかと言えば、呪いを解くことが物語の中心に感じられないからだ。
ナレーションで言う「呪い」が具体的に何か明言されてはいないが、真っ先に挙がるのが東方家の長男に代々発生する遺伝病だろう。
ラスボス・透龍との決戦ではロカカカの実の力で東方つるぎの病を透龍に移し、勝利すると共につるぎは病から救われた。(ところであれって次の世代に発病しないなんて保証は全くないと思うんだけど呪いそのものが移ったの?)
しかし、つるぎは所詮脇役の一人だ。
主人公の定助は東方家の長男ではないし、東方家に婿に来て子供を授かり、その子がこの呪いによって明日をも知れぬ命……みたいな事情があるわけでもない。
定助は吉良吉影と空条徐世文が融合した人間で、それによるアイデンティティの欠落が彼の物語を通じた苦しみになってはいるが、呪いである、と言えるほどの描き方はされていないと思う。
東方家の病が呪いなら病が、それとは別な呪いがあるならそれが物語を通して解くべき、解かれた呪いであると感じられるように要素を配置しストーリーを展開すべきだったし、そうじゃないからこそのこの感想じゃないかと思う。
【罪と対決する物語だったのでは?】
呪いを解く物語として不十分と書いたが、個人的に「ジョジョリオンにおける『呪いを解く』は本来これを軸にして描かれるはずだったのではないか」と感じられる要素がある。
それは「罪との対決」だ。
例えば東方家の土地に宿り、定助を誕生させたパワーはSBRのキーアイテムだった聖人の遺体によるものだが、さらに言えば妻を救うためにあの地へ遺体を持ち込み、自分たちと関係ない誰かへ不幸を押し付けようとしたジョニィ・ジョースターの過ちがある。
東方常敏は東方家の繁栄のためにロカカカの実を用いた黒い商売に手を付け、母の花都は常敏を救うためにまだ助けられたかも知れない少年を殺害している。
共通するのは身内に対しては心からの愛情を持っていて、しかしそのためなら他者にリスクを押し付けてしまおうという発想だ。
これはSBRの大統領のD4C、そして新ロカカカの実にも通じている。
悪人とまでは言えない人々が生きる中で犯してきた罪が呪いとなって彼ら自身や子孫を蝕み、過去の罪の清算、現在の罪への償いによって呪いが解かれる――そういった構成だったらテーマ面での不満は抱かなかったかも知れない。
しかし、実際のジョジョリオンではそうした部分は皆無ではないにせよかなり薄いというか散漫になってしまっている。
理由として思うのはやはり、敵が岩人間だからだろう。
【岩人間とは何だったのか】
ジョジョリオンの散漫な印象を大きく加速させているのが岩人間だ。
設定は柱の男に近いところもあるが吸血鬼や柱の男に比べると単純に強くないため、脆弱な人間が強大な怪物に立ち向かう、という人間讃歌的なロマンもあまり感じられなかった。スタンドバトルでフィジカルな強さを押し出してもあまり意味がないというのがあるかも知れないが、ならなおさら、岩人間というか岩生物の物語上の意味は何だったのか。
彼らは生物として人間とは決して相容れないと何度も強調されているが、人間/岩人間、炭素生物/珪素生物の構図がこの物語を面白くしていた気がしない。東方家やジョースター家とのその出自において深い関わりがあるわけでもなく、彼らとの戦いが利害の対立以上のものになってないように感じた。
ラスボスなのにぽっと出感しかなかった透龍がそれを象徴しているのではないか。
ジョジョリオンは、東方家ジョースター家に始まり彼らの問題に収束する、もっと内輪の物語にするべきだったと思う。
岩人間という外敵と戦わせたことで戦いのテーマ性が薄れ、ナレーションで語られるようなテーマに実感が得られず、「何の話だったんだろう」という印象になってしまった。
個人的に、わざわざ考察しなければ疑問符だらけになるようなわかりにくい物語は苦手だ。
ジョジョが7部以降急激にそちら側の漫画になっていっているのは誰もが認めるところだろう。
作者の嗜好や思想が変化するのも、それによって作風が変化するのもしかたない。
しかたないが、9部ではせめて難解であってもいいから、大きく打ち出しているテーマには実感が伴うように描いてほしいと思う。