サンライトノート

主に映画や小説、漫画等の感想を一定量吐き出したい欲を満たすためのブログです。本が出るとかなったら告知もするかもしれません。

バービーは現実のお人形か?/映画『バービー』感想

映画『バービー』を見た。事前に原爆とかラストの産婦人科の意味とかあれこれノイズも耳に入っていたのだけど、見てから思い出したのはこのツイートだ。

 

 

強烈なフェミニズム映画なのは冒頭のナレーションの時点で明らかだったと思うが、それはそうと正直この意見も部分的にはわからなくもない。

全体のストーリーは概ね文句ないし楽しかったが、後半になってそれまでとトーンが変わったように感じるのもたしかだ*1

 

この映画では現実世界と別にバービーランドなる世界が存在していて、バービーと、その恋人役の男性キャラクター・ケン*2たちが概ね仲良く暮らしている。

現実世界の人間の思念が影響して足が扁平になる、セルライトができるといった異常に見舞われたバービーは思念のもととなった少女を探し、ケンと共に現実世界を訪れる。

目当ての少女を見つける(実際の思念の主はその母親だったのだが)ものの、自分は愛されていると当然のように思っていたバービーは、少女の口からバービーは唾棄すべき存在、女性を性的客体として貶めたフェミニズムの敵だと罵声を浴びせられることになる。

一方のケンは「バービーの彼氏役」というバービーありきの存在だった自分たちケン≒男性が現実では社会の主導権を握っているのを知ってバービーランドも斯くあるべしとマチズモに目覚める。

結果、女性の女性による女性のための世界だったバービーランドは一転してケンが支配する男系国家ケンダムとなるのだが、現実からやってきた少女と母親はバービーたちに戦うことを説いていき、バービーランドを舞台に男女の階級闘争が幕を開ける……。

 

奥浩哉の言った通り「強烈なフェミニズム映画」なのだが、前半に関しては同氏も「お洒落だし可愛い」と称賛している。

冒頭から直球のフェミニズム言説はあるものの、その後は「お人形の世界」として極端に戯画化されたバービーランドの描写に始まり、現実世界を訪れてからの男系社会の描写もよくも悪くもギャグ的だ。

この非現実性によって現実を想起させる具体的なフェミニズムと距離を置き、現実でアンチフェミの観客も「笑いながら観」られるものになっている。

それが後半になるとお人形の世界は「現実」へと肉薄する。

 

ケンダムではバービーたちの独占していた大統領、大臣、医師弁護士学者といった要職はごっそりケンたちに奪われ、バービーたちはケンのトロフィーやマンスプレイニングの客体でしかなく、さらに、当の彼女たちまでもがその状態を楽しみ、知識階級だったはずのバービーは頭使わなくていいって最高みたいなことを宣う。

そんな彼女たちに、現実からやって来た母娘は女性の窮状とエンパワメントを訴え、次々に洗脳から解放していく。

 

このシーンを見て思ったのは、「それって現実の話じゃない?」だ。

現実でフェミニズムに女性が賛同するのは、実際に男系社会で貶められ、男に従属させられてきた経験が多かれ少なかれあるから、個人の経験としてはそれほどでないとしても他の多くの女性がそうした目に遭っているのを知っているからだろう。

しかし、バービーたちはケンダムでの扱いを楽しんでいる。

もちろん、あの体制が続くにつれて楽しいだけでなくケンからの屈辱的な扱いも含むこと、それに抗う権利までもケンに奪われていることに気づくバービーは出るかもしれない。

でも、それは自分たちで楽しくないと気づく過程を描かなきゃダメじゃない?

自分たちは全然苦を感じていない状況に対して女ってこんなに惨めなんだと言われても、彼女たちからしたら「は?」じゃないだろうか。

 

また、その前段階の、バービーたちがケンに支配されるのを楽しんでいるというところにも疑問がある。

あれは現実でも男性優位の価値観を内面化している女性が多いことのメタファーだろう。

しかし現実でそうした女性が多い最大の要因は、「そういう社会で育ったから」のはずだ。

人間はもともとの環境を正しいものと見なす習性があるし、男系社会の理不尽さは端々で感じながらも概ね慣れてしまい、自分の人格に深く根を張っている価値観にわざわざ逆らうほどのモチベーションは湧かない。社会がなかなか変わらないのは人間が基本的に保守だからだ。

でも、バービーランドはずっと女尊男卑社会だった。

インテリバービーたちは自分たちの学識や任された立場を誇っていた。それを突然ケンに奪われたのだ。何の抵抗もなくその後の「ケンの女」としての生き方を満喫できるなんてことあるだろうか*3

この映画のモブバービーは、ケンが今日から俺たちの天下だと言えば即彼らの女に成り下がり、その後彼女たちに実感があるとは思えない女の苦しみを吹き込まれて突然フェミニズムに目覚める、まるで個々の人格を感じられない描き方をされている。それこそ着せ替え人形のように。

この映画は、「お人形のバービーが現実同様の自立した人格の女性になる」という明確な流れがあるのだが、その映画でバービーたちがフェミニズムへの目覚めにおいてすらお人形にしか見えないのではメッセージは台無しなのではないか。

 

フェミニズム自体に反発する層がたしかにいる以上、フェミニズムを描くのが悪いと言っているのではない、というのはすっとぼけに近いかも知れない。

ただ、フェミニズムに限らずフィクションに現実的なメッセージを持ち込む際、それがあくまで作中世界から出た言葉であるように作中世界を作らなければ、メッセージは物語から浮いたただのメッセージになってしまう*4。それなら、現実で現実の問題について直接メッセージを発した方がずっと誠実だろう。

バービー人形で遊ぶ現実の女の子を題材にフェミニズムをやることはできても、バービー人形の世界というものを出してそこでフェミニズムをやるにはいくつものステップを踏む必要があるのではないか。それを怠った映画に見えた*5

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:もちろん反感の要因として奥浩哉が単純にアンチフェミなのはあるだろうけど

*2:自分のようなバービーに詳しくない人のために言うと、少数の例外を除いてバービーランドでは女性≒バービー、男性≒ケンであり、これまでに発売された商品のバージョンの数だけ多様な容姿、人種、職業のバービーやケンが存在するらしい

*3:バービーランドの国家運営が現実同様に大変な難事でケンダムの樹立で全ての労苦から解放されたならまだわからないでもないが、死も災害も犯罪者も恐らくいないあの世界でそんなことはないだろうし、そもそもバービーランドは毎日飲めや歌えやの暮らしだった

*4:例えば『黒博物館 三日月よ、怪物と踊れ』では19世紀イギリスを舞台にフェミニズムをやるべくフェミニストの走りと言われる女性を母に持つ女性作家メアリー・シェリーを主人公に据え当時の女性にまつわる言説への丹念な取材の上に描かれている。

*5:ここまで言っておいてなんだが、全体には面白い映画だと思う。見ていて楽しいし、男尊女卑社会を女尊男卑社会に戻しかけたところで男女が手を取り合う形に落ち着き、ケンがバービーを踏み台にした男らしさから降りた一個人として歩み出す結末は男性の在り方としても現代的だ。