要素が多い映画はほぼ駄作/『すずめの戸締まり』感想
『すずめの戸締まり』を見た。駄作だった。『君の名は。』『天気の子』はそれなりに好きだし、廃墟に佇むドアを開けようとする少女、というビジュアルからくる期待感はむしろ過去No.1だったので裏切られたという気持ちでいっぱいだ。
駄作な理由は一言で言えば要素が多すぎることだ。
連載漫画なんかはともかく映画や小説など作品全体を短時間で一気に摂取するタイプのフィクションでは、要素が多いというのはそれだけで駄作である確率が高いと思う。
ネームドキャラが多ければ全員を掘り下げて関係性を作りドラマ役割を与えるのが難しくなるし、扱うモチーフが多ければそれぞれの物語上の意味が掴みづらくなる。
この作品はまさにその失敗の典型だ。
【超常要素を削れ】
本作は大地のエネルギーが噴き出して地震を起こす扉「後ろ戸」を閉じる使命を帯びた青年・草太と、エネルギーを封じる要石なるものを引っこ抜いてしまった少女・すずめが、猫に変身して逃げていく要石(劇中ではダイジンと命名される)を共に追いかけるというストーリーだ。
ダイジンの魔法(?)で母の形見である椅子に変えられてしまった草太を抱えて旅をするすずめは行く先々で現地の人と交流し、後ろ戸を閉めて地震を阻止し、最終的には関東大震災の再発を止めるべく要石となってしまった草太を救うため、自分が東日本大震災で母を亡くした生まれ故郷へ立ち寄り、後ろ戸を通って常世(死後の世界的なところらしい)へと足を踏み入れる……。
神道っぽい世界観の超常現象を軸に展開するのは『天気の子』『君の名は。』も一緒だが、前の二作は今作に比べて圧倒的にシンプル*1に魅力ある展開(男女の入れ替わり→少女が死んでいることが発覚、晴れを呼ぶ能力を持つ少女→反動で東京が水没するほどの豪雨に)が作られている。
今作も、少女と青年が不思議な扉を閉める旅をする、と一言で書くと魅力的に思えるが、そこに付随する超常存在が無駄に多い。無駄、というのは面白さに寄与していないということだ。
今作の超常要素のうち、映画のコンセプト上必要だと思えたのは異界へ繋がる扉だけだ。
扉が別の世界に繋がっているという設定は、扉の基本的な機能(二つの空間を隔て、そして行き来する者のために開け放たれる)と直結しているし、母の死を引きずっていた少女が再出発するというテーマ的な意味とも繋げやすい。
後は全部いらない。
大地のエネルギーで地震が起きなくていいし、地震を沈める要石が猫になって逃げる必要はないし草太が椅子にされる必要はない。
地震は、すずめが東日本大震災で親を亡くしている設定もあって物語の根幹を成すようにも思えるが、はっきり言ってその部分に全く価値を感じなかった。
こう言うと被災者のトラウマを軽んじるようで失礼かもしれないが、地震というか自然災害は、戦争や今まさに世界を覆うコロナウイルスに比べて物語のモチーフ力は弱いのではないかと思う。震災直後ならまだしも十年以上を経た今取り上げられても別に……という感じだ。
劇中で何かしらの災いを防ぐストーリーにするなら、あの扉が開くことで常世と現世が繋がってしまう、この世も死者の世界になってしまうとかそういった形にすべきだったのではないか。扉のモチーフ性から直感的に連想しづらい地震という災厄は、阻止することに物語的な意味を感じづらかった*2。
草太が変身させられ、扉に次いで重要な小道具に使われていそうな母の形見の椅子だが、これも何なのだろうと思わされた。
椅子というモチーフは腰を下ろして体を休めることのできる安心感、慣れ親しんだ自分の部屋、扉の“出発”と対応させるなら“停滞”というネガティブなテーマ性を読み取ることも可能かもしれない。かもしれないが、それは劇中でそうであるとはっきり描かなければ意味がないと思う。
三本足の椅子になった草太が椅子の状態でとっとこ駆けていく姿はカートゥーン的な面白さがあるし美青年が椅子になっている間の抜けた愛らしさなどもまああるのだけど、それもドラマ的な意味がないというマイナスを覆せるものでは到底なかった。
【価値がないものを守られてもしかたない】
今回の映画において主人公たちの主目的は地震を未然に防ぐことだ。中盤では発生すれば万単位の死者が出ただろう東京での震災を阻止しており、少女一人を救うために東京を水没させた『天気の子』は言うに及ばず、救った人名で言えば『君の名は。』よりもずっと多いことになる。
ただ、今回の映画が問題なのは、そのことに全然価値を感じないことだ。地震を絶対に起こしてはいけないという気にならないし、地震が起きなくてよかったと別に思えない。
フィクションの出来事は根本的に他人事だ。架空の世界で地球が滅亡しようと知ったことじゃない。
『君の名は。』の真相が衝撃的だったのはそれが三葉や彼女の家族友人の死を伴って発覚するからだし、『天気の子』の雨が止まず水没していく東京においヤベえよという気持ちになるのは、そこに穂高や陽菜の暮らす場所として愛着が湧いていたから(逆説的に、それが東京を犠牲にするラストの決断を引き立てている、観客にとって価値あるものを切り捨てたのだから)、キャラクターに価値があるから彼らの生命や生活を脅かされてハラハラするし、救われてホッとする。『すずめの戸締まり』を見てそんな気持ちにはなれなかった。
【何が言いたい話なの?】
要素が多いから失敗したと書いたが、その要素の多さが生んだ感想を一言で表すとそうなる。これって何が言いたい映画だったのと。
いや、何が言いたいかはわかる。だって劇場特典の小冊子でも劇中でもはっきり明言してるから。
ただ、作品自体がそれを具現化した作りになっていない。だから言ってるテーマに実感が湧かない。それが言いたい映画に見えないのだ。
小冊子によれば本作は「生きて帰りし物語」らしい。日常の対極の世界を経て日常に帰ることで生きていることの確かさ、安心を得るのだという。ただ、すでに書いたように今作を得てそんな安心は感じなかった。
すずめの成長も大きなテーマだとパンフレットにもあったし劇中でも前面に押し出しているのだが、これもよくわからない。彼女の成長を表す記号として扉というモチーフ、そこを潜って出発する姿が描かれているわけだけど、じゃあ物語序盤の彼女はずっと塞ぎ込んでいたとかなのか。そんなことはない。母を亡くした悲しみから周りの人に心を開いていないのか。そんなことはない。友達は普通にいたし、通学途中ですれ違い、何か見覚えある気がするだけのイケメンを学校サボって追いかけるほどに彼女はアグレッシブだった。彼女には何が欠けていて物語の何が彼女を成長させたのだろう。わからなった。*3
終盤、すずめは常世で出会った昔の自分に対して、「あなたは大丈夫だよ」「今目の前が真っ暗闇に見えても光の中で大人になっていくんだ」みたいに説いている。
それは劇中においてはいずれ母を喪った悲しみからも救われるとわかっているからなのだろうけど、これが現実を生きる観客へのメタ的なメッセージなのは明らかだ(小冊子でもコロナに言及しているし、企画段階でパンデミックが発生していた時期なことがわかる)。
その上で言うとよくこんな薄っぺらいこと言えるなと思う。今人類を覆うコロナは収束の兆しも見えず恐らく半永久的に人類社会を支配するだろうし、それに起因する不自由、閉塞感も画期的なブレイクスルーでもない限りは解消されないだろう。そんな状況をリアルに生きている人々が、あんな楽天的な言葉を聞いて希望を持てるのだろうか。
こんなにわざとらしくメッセージを言語化して、かつそれが何の説得力も宿っていない。無様な映画だと思う。