バイクメイン映画は無理がある/『ハイウェイの堕天使』感想
劇場版名探偵コナン最新作『ハイウェイの堕天使』を見た。
見終わった直後はまあまあ楽しめた気がしていたのだが、一緒に見た友人と話した結果、駄作とは言わないまでも*1あまり出来の良くない映画であるとの結論に至った。
そのため、本記事は半分くらい友人の感想と言えるかもしれないが、もちろん文責は私にある。
【萩原千速】
世良真純必要だったかとか終盤の取ってつけたような蘭のピンチ意味ないだろとか巨大建造物が完全崩壊しないコナン映画ってやっぱ物足りないとかだからってあの倉庫に予め爆弾仕掛けてるのは無理がありすぎるだろとか言いたいことは色々あるが、その中でも主たる敗因はずばり、萩原千速をメインにしたことだろう。
私はコナンを原作初期及び映画とゆっくり解説でしか知らず、割と近年のキャラで劇場版初登場の彼女のことは完全なミリ知らなのだが、映画で受けた印象は「とにかくバイクがアイデンティティなんだな」ということだ。
例えば、コナンは映画で毎回のようにド派手なスケボーアクションを披露するが、決してスケボーがアイデンティティなわけではない。
服部平次も世良真純もバイクに乗るが、彼らのバイクもあくまでも移動手段だ。
「探偵」というコナンに通じる属性、「和葉とのラブコメ」「赤井ファミリー」というドラマ要素、「剣道」「ジークンドー」といった戦闘スキルなど他の要素で物語に参加できている。
レース物でもない限り、乗り物は単に手段であってそのキャラクターの中核ではないのだ。
仮面ライダーの中核がバイクではなく怪人にライダーキックすることであるように。
しかし萩原千速はバイクこそが中核の人物なのだろう。
彼女が活躍し得るスキルはバイクしかないため、必然彼女をメインに据えようとすると犯人側も彼女に追われる場面を多々作るべく、移動手段を超えてバイクをメインとした犯罪者とする必要が出てきたのだと思う。
そしてこの、2時間映画に値するスケールで、且つコナンらしく、その上でバイクをメインにした犯罪というのが厳しかったのだと思う。
コナン映画のメイン犯罪は殺人事件だ。爆弾魔だとか少し毛色の違う作品もあるが、とにかく人を殺傷する凶悪犯罪をメインに据える必要がある。バイクを使ったひったくり犯では話にならない。
そして推理する要素がなくてはならない。
ひたすらバイクで人を轢き殺しまくるゴ・バダー・バのような通り魔ライダーはいくら凶悪でもダメで、推理によって導き出せる犯人像、推理しなければ犯人のわからない事件にする必要がある。
この、「バイクに根差したミステリー要素のある殺人事件」を実現した結果が、本作のライダー不審事故死や謎のライダー・ルシファーによる轢殺なわけだが、それが何とも魅力がないというか印象の薄い事件と言わざるを得なかった。
そもそも、犯人側の目的である軍事用のバイクの開発という部分にかなり無理がある。
軍事目的のバイクって何だろう。軍用車のように軍用バイク自体はあるのだろうけど、本作で言ってるのはそういう移動手段としてではなく戦闘車両の一種なのだと思う。
それって一体どんなものだろうか。高速で走行しながらミサイルを撃ちまくるんだろうか。かっこいいが、バイクに詰める武装の程度を考えると厳しそうに思える。ドローンの方がよさそうだ。
【事件を複雑化するな】
私が思うエンタメの法則に「複雑化は基本的に悪手」というものがある。
ストーリーが理解できないほど難解、というようなレベルでなくとも、単に登場人物が増えるだけで各人物への印象は薄れるし、メンバー同士の関係性を作るのが難しくなるからだ。
近年のコナン映画はしばしばこの失敗パターンを踏みがちだ。コナンにおいてそれは、「別々な複数勢力を並立させ、それらが上手いこと絡んでいない」という形であることが多い。
『ハロウィンの花嫁』は安室透、佐藤・高木、プラーニャ被害者の会と犯人追跡側を複数サイドに分け、『100万ドルの五稜郭』では犯人側を福城家と武器商人一派に分けていた。
ミステリにおいて一つの事件の中に実は複数の別々な犯人がいて〜というタイプの真相は珍しくないが、この手の真相を採用する作品は大抵片方がもう片方に殺されているとか、片方の罪はせいぜい軽犯罪でもう一方は殺人犯など罪の重さに大きな差をつけるとかすることで、「メイン犯人」を作り、探偵はそちらを糾弾するような構図に落とし込んでいると思う。
結局、面白いエンタメは「一対一」の構図に収束すべきなのではないか。
コナン映画の中でも『水平線上の陰謀』はこのタイプで、倒叙モノとして最初から明示されている犯人Aの犯行を描きつつ、それに乗っかって利用する犯人Bが「真犯人」(Aだって人を殺しているのだが)という構図になっている。
今回の映画にそれはない。
アサギ、利用する大前、さらに利用する竜里という別個の犯人が存在し、アサギを利用する大前と竜里も別々なため、「勝利する相手」が分散してとにかく盛り上がりのない対決となってしまっていた。
また、「謎の黒づくめライダー・ルシファーとの対決」という雰囲気で進み、そのルシファーはバイク含め魅力的なビジュアルをしているのに割りかしあっさり片付けられてしまい、終盤はバイクにも乗らず遠隔操作してイキっているだけの魅力のない黒幕気取り二組が残された。盛り上がるわけがない。
【コナン映画五戒】
先に挙げた「複数勢力を出してはならない」の他にもコナン映画には「これをやったら駄作」的な要素がいくつかあると思う。
・犯罪組織を犯人にしてはならない(該当作:迷宮の十字路、天空の難破船、紺青の拳、100万ドルの五稜郭):「複数勢力を出してはならない」に理由は近い。主犯以外はモブの部下だとしても部下に手伝わせている時点で犯人の魅力は薄れる。
・黒の組織と対決させてはならない(該当作:漆黒の追跡者、純黒の悪夢、黒鉄の魚影):本編に影響を与えるような不可逆の出来事を起こせない劇場版での本編のメインストーリーである黒の組織との対決は必然的に茶番であり、コナンを絶体絶命に追い込みつつも殺させないためにジン兄貴はとんでもない無能にされる。馬鹿にして笑いたい人以外は見なくていい。コナン映画最高傑作『天国へのカウントダウン』は事件の背景に黒の組織が絡んでいるが、こちらはストーリーにしゃしゃってこず適度な仕事だけ済ませたらスッと引いてくれるのがいいのだと思う。
・犯人の動機を金目当てにしてはならない(該当作:迷宮の十字路、天空の難破船、紺碧の棺、沈黙の15分、100万ドルの五稜郭):金目当てのような動機の犯人は魅力がないから、というわけではないと思うが、これ系の動機で面白かった映画はないと思う。金目当ては犯罪組織が絡んできやすいからというのは一因かもしれないが、単独犯でも金目当てで面白いものは一つもない。不思議だ。
・怪盗キッドを出してはならない(該当作:銀翼の奇術師、天空の難破船、探偵たちの鎮魂歌、業火の向日葵、紺青の拳、100万ドルの五稜郭):怪盗キッドは人を殺さないため、コナン映画に出そうとすると殺人事件の捜査にキッドが絡んでくることになり、こういった構造は「複数勢力を出してはならない」が忌避する複雑化を招くのではないかと思う。世紀末の魔術師は面白い。
*1:友人は駄作だと思っている気がする
フィクションに反出生主義を出すのはやめよう
はじめに言っておくとこのタイトルは嘘である。そこまでは思っていない。
嘘だが、「こんな描き方をするなら出さんでいいよ」と言いたくなるフィクションが多いのはたしかだ。
なぜかというと、フィクションに登場する反出生主義はほとんどが似非だからだ。
本記事は、フィクション内反出生主義が似非となってしまう理由への私見である。
【大反出生主義時代】
反出生主義的な思想は古代から存在したようだが、恐らく日本において一般的な知名度を得たのは2010年代後半からだろう。
反出生主義の思想は一言で言えば、「産んでくれなんて頼んでない」だ。
これは長らく反抗期の子供がほざく戯言としか捉えられてこなかったが、この言葉が真剣に捉えられるようになった、反論不可能な問いであることに気づかれ始めたと言ってもいい。
20年代に入ってからはコロナに戦争に気候変動と人類の先行きを悲観させる要素が押し寄せたせいもあってか、この思想に理解や賛同を示す声は、新聞やテレビ番組でも時折特集が組まれるほどに高まっている。
そんな現実を反映しているのだろう。
フィクションにおいても反出生主義を扱ったり間接的にせよ言及したりする作品がちらちらと出てきたように思う。電撃文庫のライトノベルに登場した時はおどろいた。
直近ではジャンププラスで公開され話題になった読み切り『utopia』でも、反出生主義に近いニュアンスの台詞を登場人物が口にしているし、同作の公開当初に作者がブログで同作について反出生主義に反論したかったと述べている。*1

恐らくその中で最も有名なのは『進撃の巨人』だろう。インターネットで反出生主義者と言えばべネターでもショーペンハウアーでもなくジーク・イエーガーを真っ先に思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

ただ、『進撃』にしてもそうだが、先述した通り、肯定するにせよ否定するにせよ、多くの作品で描かれる反出生主義は似非である。*2
そうなる理由が作者の無知か不誠実かは作品によるのだろうが、似非になってしまうのは、反出生主義がフィクションで扱うには難があることも理由だろうと思う。だから、そもそも無理して出さんでいいよと言いたい。
最近読んだ『生を祝う』もまさにそう言いたくなる作品だった。
【『生を祝う』の似非反出生主義】
『生を祝う』は、レズビアンカップルの生殖を題材とした小説だが、その核になる設定として同意出生制度というものが登場する。
劇中では「普遍文法」なるヒトの脳が生まれつき持つ言語が発見され、その普遍文法によって子宮内の胎児と簡単なコミュニケーションが可能となった。
同意出生制度は、この普遍文法によって子宮内の胎児に様々な指標からなる「あなたの人生で予想される生きづらさ指数」を提示し、その上で生まれることへの同意を得ること、胎児が同意を拒否した場合は中絶することを義務付けるものだ。
胎児の拒絶を無視した「非同意出生」は犯罪であり、生後に子供がそれを知った場合、親は刑事責任を問われる他、安楽死の費用を負担しなければならない。
その制度が始まって30年ほど過ぎた結果、主人公たちも含め、非同意出生は子供に人生を強要する非道な行為であり、そうやって生まれさせられた子供や胎児との意思疎通技術が確立される前に生まれた子供は被害者として扱う世論が形成されている。
劇中で非難されている非同意出生は現実の出生そのものであり、作中は反出生主義が完全に社会正義となった世界、という図式だ。
物語では、主人公のお腹の子供が出生を拒否したために主人公は同意出生を疑い始め〜と色々あるのだけど、そういったストーリーへの評価は本論の趣旨と関係ないためここでは割愛する。
この同意出生制度におかしさを感じなかっただろうか。
胎児の脳に何がわかるんだよとかそういう技術的な問題ではなく。
いや、それ、
ただの自殺やんけ。
言うまでもないが、胎児はすでに生きている。現行の法律だって22週以降の胎児は人として扱う。*3
作中における「出生」には「子宮から出る」という意味しかない。
同意出生とか言っているが、実態は
「あなたが子宮から出た後の人生の見通しって点数評価だとこのくらいだけど、生きる? 死ぬ? 死にたいなら今すぐ殺してあげるよ」
という安楽死に他ならない。
生きるのが嫌になった子供の安楽死費用を〜という設定を見るに、作中世界は無条件安楽死が常に許容されているエクストリーム自己決定主義社会なのだろう。
仮に作中のような胎児とのコミュニケーションが可能になったとして、反出生主義者たちは「その制度なら出生の倫理的問題はクリアされているね。反出生主義者的にもオッケー」と言うだろうか。言わないと思う。
彼らは思うはずだ。
そもそも作るな。
子供の人生は受精卵の段階から始まっている。生まれる=子宮外に出ることは人生10ヶ月目前後で発生するイベントでしかない。
作中ではこの同意出生制度への様々な疑問が発せられているのだが、「生まれることへの同意を得る段階ですでにその子供は『生まれて』しまっているじゃないか」というコアな問題は問われていない。
それを言い出すとこの設定の意味がまるきりなくなるからだろう。
『生を祝う』と似たようなSF的設定で反出生主義を扱っている作品に『射手座の香る夏』収録の短編『十五までは神のうち』がある。
この作品ではタイムマシンの発明によって自分が胎児だった時点で母親に中絶薬を投与し、自分を生まれてこなくする権利が認められている設定だ。
これも同じ問題を抱えている。
自己中絶の決定を下すのはすでに生まれている未来の本人なのだ。
両作の設定に共通するのは「生まれてくることに同意を得ることは不可能な以上、絶対に生殖は不当である」という反出生主義の根幹部分に挑戦している点だ。
両作品ともSF的な設定によって「生まれる前の、生まれることに合意を問える子供」という本来存在し得ない存在を登場させ、彼らに問うことでこの問題の解決を図っている。
図っているフリをしている。
何故「フリ」かと言えば、そこで描かれるのは「生まれることへの合意」でも何でもないからだ。
『生を祝う』の胎児も、『十五までは神のうち』の未来の本人も「生まれてこない」決定をする主体がすでに存在してしまっている以上、作中で言うところの「生まれてこない」はただの自殺にしかなっていない。
唯物論的な世界観である限り、「生まれることへの合意」は科学的にというより論理的に不可能なのだ。
また、先に挙げたジーク・イエーガーも最終的に「また生まれてもいい」という結論に辿り着くわけだが、ここで「生まれてもいい」と発しているジークはやはりすでに存在している主体である。
ジークの「生まれてもいい」は「存在の継続」への容認とも言い換えられ、つまりそれは「生きたい」に他ならない。
『生を祝う』『十五までは神のうち』における「生まれたくない」は「死にたい」であり、ジークの「生まれたい」は「生きたい」なのだ。

諫山創はともかく『生を祝う』作者の李琴峰も『射手座の香る夏』作者の松樹凛も、ここまで明らかな論理的破綻に全く無自覚だったとはちょっと思えない。
具体的に作品外の何かを読んだわけではないので完全な憶測だが、両氏は似非になると自覚しつつ、わざとズレた扱い方をしたのではないかと筆者は考えている。
それは、真正反出生主義はフィクションでウケが悪すぎるからだ。
【反出生主義の問題点】
反出生主義のウケが悪いというのは、何もそれが人類滅亡をよしとする思想だから、極めてネガティブな考えだからというだけではない。
露悪的なフィクション、厭世的なフィクションは世の中にいくらでもあるが、反出生主義はそれらの作品と比べてもテーマとしての致命的な欠陥を抱えている。
それは子供の不在だ。
例えば児童虐待を描いた作品で被虐待児やサバイバーを描かないというのはあり得ないだろう。
描いた方がいいに決まっている。被害者であり、救われるべき者、彼らこそが最も受け手の感情をくすぐる。
しかし、「子供を作ってはならない」と唱える反出生主義において、このメソッドは使えない。
反出生主義は子供を救えない。子供という時点で手遅れだ。
「生まれずに済んで救われた子供」を描くことはできない。生まれなかったということは最初から一瞬たりとも存在しなかったということだからだ。
『生を祝う』や『十五までは神のうち』はすでに生まれてしまっている子供の自殺を「生まれることを回避した」かのように演出しているに過ぎない。反出生詐欺と言ってもいい。
どうも「出生主義者」たちは、未来に生まれてくる子どもたちが舞台袖で座って待っているとでも無意識に思っているらしい。違うだろう。未来は端的に「無」だ。生まれなかった子どもから失われるものなどない。だって、いないんだから。(引用元:『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』©品田遊/株式会社コルク)
生まれる子供、という最も訴求力の強い存在を使えず、もう手遅れの奴らしか出てこない。
誰も救えない。手遅れの存在を増やさなかったということだけが反出生主義の成果であり、手遅れにならなかった子供は仮定の可能性の中だけの存在だ。
そんな思想はフィクションで魅力的だろうか。
フィクション、いやエンタメフィクションは論理よりも感情への訴えを重視するものだと思う。
そもそもエンタメは感情を動かすものだからだ。
多くの作品ではキャラクターの見た目が美麗だし、とにかく美少女にものを語らせたがる。
同じことを言ってても美少女の方が好意的な感情への訴求力が高いに決まっているからだ。
感情への訴求力と論理的な正しさがドッキングするのが理想的なエンタメだろう。
反出生主義は感情に訴求するような成果など挙げられない。
反出生主義の論理を曲げずに描くということは、感情への訴求を欠いたままひたすら理屈をこねることに終始するということだ。
私が数少ない、似非ではない反出生主義を描いていると思う作品として、先に引用した『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』があるが、これは「反出生主義の是非についてひたすら会議をしてるだけ」というまさに理屈をこねるだけの作品だ。
反出生主義のフィクションが反出生詐欺に陥らないのが如何に難しいかという傍証だろう。
【似非反出生主義概観】
フィクションの反出生主義のほとんどは似非と書いたが、その「似非さ」には二つのパターンがある。
パターン1:『生まれる前の主体モドキ』が存在する設定を作り、反出生主義の前提を崩壊させる。
パターン2:『反出生主義』を『自分の人生の否定』にすり替える。
パターン1、つまり『生を祝う』や『十五までは神のうち』がこの例だが、これらは前提を壊しているとはいえ反出生主義をある程度尊重している作品が多いように思われる。
というか、反出生主義に一定の共感を抱く作者が訴求力のなさを解消しようとして使う反則技なのだろう。
それに対してパターン2は、はっきり言えば反出生主義を否定するためだけの手法だ。反出生主義を描いたフィクションの大部分はこちらである。
例えばジーク・イエーガーが筆頭だが、彼のエルディア人絶滅計画が、ストーリーの文脈上、自分が不幸であることから出発しているのは明らかだ。
自分は不幸である
→自分は生まれてきたくなかった
→自分の不幸の背景にはエルディア人であることがある
→自分のような幸福を望めない人間=エルディア人は生まれてくるべきではない
という流れだ。
はっきり言えば、ジークの反出生主義は「死にたい」を拡大したものでしかない。
だから、ジークの反出生主義を巡る感情の流れは「この世界で生きることは幸せか」に終始し、最後は絆される形で「また生まれてもいい」という名の「生きたい」に着地してしまう。
現実の反出生主義者への揶揄として「生まれてきたくなかったってならさっさと死ねばいいのに生きてるのはおかしい」というようなものがよく見られる。
この揶揄は的外れだが、多くの反出生主義否定作品ではこの揶揄を半ば肯定しているような描き方が多い。
そこでの反出生主義者はジークがそうであるように「生きていたくない」の言い換えで「生まれてきたくなかった」と言っているに過ぎないからだ。
比較的最近の作品では『森栄完爾と十二人の知らない子供たち』という小説でも、反出生主義者の少女が登場するのだが、彼女には子供を中絶してしまったという過去があり、自分は生まれてくるべきではなかった、という主張に行き着いている。
作中では反出生主義自体がテーマなわけではないため彼女の主張がそれ以上に取り沙汰されることはなかったが、反出生主義を個人の自己否定に矮小化しているフィクションの一例だろう。
【『生まれてこない方がよかった』という誤謬】
フィクションに限らず、現実で反出生主義を取り上げる際の定番のフレーズとして「生まれてこない方がよかった」というものがある。本職の哲学者が反出生主義を紹介するテキストでもこの言葉を冠したものが少なくない。
それだけ端的でキャッチーな、名コピーということなのかもしれないが、はっきり言ってこの言葉は間違っている。
何故なら、反出生主義は生殖能力を持つ人間に生殖を禁じる思想だからだ。
「親になるな」「作るな」という思想なのだ。
翻って、「生まれてこない方がよかった」「生まれてきたくなかった」といった言葉はどうだろうか。
これらの言葉は子供目線だ。
親を咎めるのが反出生主義なのに、その親によって作られた側の子供の自己否定の問題であるかのように誘導している。
我々は生まれたのではない。
生まれさせられたのだ。
親のセックスなり人工授精なりで勝手に作られたのだ。
生まれない方がよかったも何もない。我々にそんな余地はなかったのだから。
作らないという選択の余地がある親が勝手にやったのだ。
はっきり言って、「生まれてきてよかったのか」という問いは「自分の人生はいいのか悪いのか」にしかならない。
そこでの判断材料は自分の人生だからだ。人生が幸福であったならこんな問いは出てこないだろう。
しかし、どれだけ幸福でも「親が自分を作る行為は不当だったのではないか?」という問いは立てられるし、この観点において親の選択は間違いなく不当である。
生きる義務死ぬ義務を負った子供を一方的に生み出したのだから。結果がどうなろうと関係ないのだ。当たりか外れかわからないクジを引いてその結果を他人に背負わせているのだから。
しかし、「生まれてきたくなかった」はそこに至らない。自分の人生の話に終始することになる。
だから人生が好転したり、あるいは不幸を受け入れたりすることでたやすく「生まれてきてよかった」に流されてしまう。
結局、パターン1もパターン2も、反出生主義への肯定か否定かのちがいこそあれ、「子供の側を主役にする」という誤りが通底し、そのために反出生主義の本来的な論理を歪めている。
そしてなぜこんな誤謬に陥るのかと言えば、苦しめられる側としての感情的な切実さがないと、フィクションでは魅力的にならないからだろう。
例えば、反出生主義は子作りを悪行と見なすが、その悪行によって生まれてしまった子供の人生を否定するわけではない。
生まれたこと、生きていることは取り返しがつかないのだから生きていいし、幸せになっていい、なった方がいいのだ。
だから、理想的な反出生主義者というのは「僕の人生はめちゃくちゃハッピーだけど、それは結果オーライであって親が僕を作ったのは不当だよね」と主張することになる。
しかし、こういった人物をフィクションで描いたら魅力的だろうか。
主張する本人の人生という最大の「重み」がそこにはなく、子作りを冷笑するために理屈こねてるだけの不愉快な人物に見えるのではないか。
自分が不幸であり、そこから出発して反出生主義者になったキャラクターの方が間違いなく感情的に理解しやすい。
そして、不幸がバックグラウンドである以上、不幸の解消や納得によってなし崩し的に反出生主義を捨てるのもやはりわかりやすい。
現実においても、反出生主義を標榜する者の主張はただの優生思想と結びつきがちだ。貧乏人や障害者は子供を作るな、というような。ジークのエルディア人絶滅計画だってそうだ。
しかしこれも、「自分が不幸だから」を出発点とする反出生主義者の、ある種必然の帰結だろう。
自分が不幸であることを拡大解釈で他責しようとしたら、自分みたいな子供を生み出す可能性の高い人間は子供を作るな、というのが、感情的な落としどころとしてある意味妥当だからだ。
しかしそれは、ここまで書いてきた通り反出生主義として間違っている。
【フィクションに反出生主義を出すのはやめよう】
つまり反出生主義とはこういう思想である。
あなたが不幸なことはどうか解消されて欲しいと思う。
ただ、たとえあなたがどれだけ幸福になろうが、親があなたを作ったのは不当であったことは忘れないで欲しい。
あなたがどれだけ幸福で子供のための財産や生育環境を整える自信があろうと、子供を作るのはそんなこととは無関係に不当なことを忘れないでほしい。
すでに子供を作ってしまった人は、その子に関しては手遅れだから全力でその子に尽くして欲しい。
ただ、あなたがどれだけ努力しようがその結果上手くいこうが出発点が誤りであったことは変わらず、だからその子で最後にして欲しい。
フィクションで反出生主義を描くとはこのように描くことだ。
幸せな子の親も不幸な子の親も一様に断罪し、全ての人間を一様に生殖の被害者として扱い、さらなる生殖を一様に禁じる。
どうだ、全然面白くなさそうだろ?
反出生主義がテーマと聞くので近いうちに読みたい。駄作だった。
スーパーマン、選挙に出よう/『スーパーマン』感想
『スーパーマン』を見た。
インターネット*1を見る限りは評判のいい映画のようだが、個人的には「まあ悪くはないけど」といったところだ。
そもそもスーパーマンに無知なので、新シリーズ一作目なのに当たり前のようなツラで出てくるグリーンランタンだの犬だの彼女だの何かスーパーマンを敵対視してる社長だのについていけないとか、スーパーマンのスーツがやっぱダサい、特にビキニパンツがやたらダルダルだしとか、アクションシーンもまあやっぱり豪華だし映像としてのレベルは高いんだろうけどニチアサ特撮的なアクションの方が見栄えがするなあとか色々あったが、一番に思ったのは「今作の政治要素の扱い、そんな上手いか?」ということだ。
インターネット(Xのこと)の評価を見る限り、今作での架空の国家ボラビアによる侵略は、イスラエルによるパレスチナ侵攻になぞらえる見方が多いらしい。
撮影が開始されたのが2024年2月だし、企画を立てているのはそれよりずっと前だろうことを思うと22年2月からのウクライナ侵攻を意識している可能性が高いのだろうけど、それはそうとやはり、偶然似てしまっただけにせよ、劇中で侵攻を阻止したスーパーマンがルーサーや彼に扇動された一般アメリカ市民のみならず恋人にすら非難されるされる流れには、ロシアとイスラエルへの対応の差に見えるダブルスタンダードぶりを思い起こしてしまう。
今作の敵が掲げている主張は「既存の秩序至上主義」とまとめられるように思う。
スーパーマンの侵攻阻止を非難した人々は、国による正式な介入でもなく個人が力を行使したことを咎めてはいるが、しかしスーパーマンがやったことは、本来なら国際社会がやるべきことのはずだ。ボラビアが強いとか弱いとか以前に、そもそも阻止しようとしていなかったのだから。
スーパーマンが介入して一時的にボラビア軍を退けたところで、あの地域に常駐して守り続けられるわけではないだろうが、しかしその責任を負っているのもやはり本来国際社会のはずだ。
スーパーマンの恋人は「侵略された国はアメリカの友好国でもない」と言っているが、一般市民を助けるかどうかをそんなことで判断する国際政治の倫理観がそもそもおかしいのだ。
スーパーマンが非難されるのは、「ボラビアを黙認する」という欧米社会のスタンダードに楯突く行動だったからだろう。ちょうどイスラエル批判論者を追放しようとするアメリカ政府のように。
既存の秩序至上主義者は、その秩序からはみ出したものを苛烈に非難し、その行動のリスクに対して実際以上に重い責任を要求するが、しかしその既存の秩序が踏みつけにしている弱者、映画で言えばスーパーマンが介入しなければ殺されていた市民や、現実ならパレスチナで犠牲になり続ける人々を透明化してしまう。
この、既存の秩序至上主義は恐らく人間の普遍的な性質であり、その性質の酷薄さ露わになっているのがここ数年の世界、今作のスーパーマンはそういったものに立ち向かうヒーローなのだろう。
……ここまで書くと、まるで『スーパーマン』が素晴らしい映画のように思えるが、しかしイマイチだと感じたのは、今作がこうした現代的なテーマを扱いつつも、結局悪い意味でヒーローモノ的な流れに堕していると感じたからだ。
それは、結局ルーサーが全部悪い、ということだ。
映画の終盤、スーパーマンの仲間の活躍で、ボラビアの侵攻にはルーサーが噛んでいたこと、スーパーマンバッシングも彼の仕組んだこととと暴露されると大衆は手のひらを返すのだが、それで思ったのは、「こいつら自分たちの悪性までもルーサーに押し付けて切り捨てようとしていないか?」ということだ。
だって、ボラビアを黙認してたのはルーサーに騙されたからじゃないじゃん。
ボラビアに都合のいいフェイクをルーサーは流していたのかも知れないが、ロシアやイスラエルのフェイク同様、騙されても仕方ない巧妙な嘘でもなんでもないだろう。自分たちは侵略を見て見ぬふりをしていることの正当化にフェイクに乗っかったのだ。それはルーサーのせいではない。自分たちの卑劣さだ。
暴露時の反応として「保守もリベラルもわかっただろう。ルーサーはクソだ」などと宣っている男がいたが、保守もリベラルも自分たちの都合でクソを見逃し続けきたとはっきりしたのが現実の世界だ。
皆、スーパーマンに、それ以上に見捨てるつもりだった人々に謝罪するべきなのだ。
しかし、怠惰さ故に悪に加担した罪人として自らを恥じるのではなく、お気楽にヒーローを応援していればいい無垢な弱者に大衆に安住することを選んでいるように見えた。
せっかく政治的になったのに、またノンポリのヒーローモノに逃げたのではないか。
スーパーマンのアメリカ市民がやるべきことは、ヒーローに感謝し称揚して終わり、ではない。
立ち上がり、政治的な働きかけを求めることだ。
スーパーパワーを持った個人の善意に期待するのでなく、少なくとも人知の及ぶ範疇に置いて、人々が連帯し正義に基づく国際社会を作っていけるよう主体性を持って政治参加していくことだ。
スーパーマンは、国際社会の既存のあり方を非難すべきだし、よりよい世界のために政治をやっていこうと訴えかけるべきだった。
また、そうすることで、今作のもう一つのテーマ、「移民としてのスーパーマン」も強度を増すのではないか。
はっきり言って、スーパーマンは「よい移民」でしかない。そもそも一人だし、クリプトン星の文化を地球での暮らしに持ち込まないし、スーパーパワーを有益な形でしか使わない。ドナルド・トランプだってスーパーマンは歓迎するにちがいない。
スーパーマンが政治的な意見をはっきりと表明しだした時、人々は受け入れられるだろうか。
軍隊を上回るスーパーパワーを持つ個人が政府を非難した時の緊張感はどれほどのものだろうか。
スーパーマンが、クリプトン人も地球人もなく人間として選挙に出るとか言い出した時、社会に楯突かないノンポリヒーローとして彼を讃えていた人々は、果たして侵略者と呼ばずに彼の政策に耳を傾けられるだろうか。
本当にスーパーマンが人間として受け入れられるのか、試されるのはその時かも知れない。
*1:Xのタイムラインのこと
ブログに感想を書かない100の理由
二週間くらい前に『教皇選挙』の感想を投稿したばかりなことには目をつぶって読んで欲しい。もちろん理由は100どころか1つしかない*1。
先日、『世界99』(集英社/村田沙耶香)を読んだ。当初はこちらに感想記事を投稿するつもりでそれなりの量のテキストを書いたのだが、やめた。
Xに垂れ流したモノで十分だ。
村田沙耶香『世界99』を読みました。『ハーモニー』……になったからハーモニーのオタクは読めばいい、いや、どうかな……になった。(伊藤計劃みたくオシャレってわけではないから)(男社会をこき下ろすし受け付けないオタクは多そう)
— 山の光 (@Sunlightshower) 2025年4月15日
『世界99』、「村田沙耶香の全てが詰まった」と下巻の帯にある通り、村田沙耶香が今まで書いてきたモチーフもテーマも全部やってるって感じに全部乗せで、そのせいで改めて、村田沙耶香ってホントにこれしか書けないな……になった
— 山の光 (@Sunlightshower) 2025年4月15日
SNSというか現Xが普及してからというもの、感想サイトという文化は絶滅寸前である。いや、何ら数字に基づいたものではないがゼロ年代とは比べるべくもないにちがいない。それを前提に進める。
読書メーターだとかFilmarksだとかレビュー系SNSはそれなりに盛況のようだが、これらは「みんなの投稿の場に参加する」というイメージで、ブログなりnoteなり、「自分だけの場所」を持つ人は今や少数だろう。多分。
恐らく感想サイト*2の衰退理由は「わざわざアクセスさせるよりもみんなが常駐してるSNSにそのまま投稿した方が見てもらいやすいし、なのにわざわざ自分のサイトを持つ意味がない」といったところで、私がこの記事で主張したいこととは別なのだろう。
しかし、理由が何であれ、私は感想サイトの衰退は歓迎する立場だ。
感想とは内に秘めたままにしておくか、誰にも見せないノートにでも書き出すか、人に見せるならXに垂れ流すくらいに留めるべきであり、個人用ブログは感想という営みを腐らせる。
【『作品』と化すレビュー】
私がこのサイトに投稿してきたレビューは全て、ではないがある時期からは明確に、一つの目的に沿って書かれている。
それはウケることだ。
映画なり小説なりをダシに自分の独自の視点をアピールし、頭いい、慧眼、文才がある……などと褒めてもらって承認欲求を満たすことだ。
記事内容がこき下ろす系のモノしかないのも、否定することでしか自分をアピールできないからだ。
私の記事は基本的に、全体のテーマを一つに定め、それに沿って作品の粗や構造的欠点を提示し、自分の批判を論理的に成立させる、という意識で書いている。
そうした方が記事として読みやすく、面白いと考えているからだ。
studio-sunlight.hatenablog.com
どの程度実践できているのか、実際に私の記事が面白いのかは置いておいて、この考え方自体はそこまで間違っていないと思う。
しかしこれは、一つの前提に立っている。
それは、感想記事を「作品」として世に出そうとしているということだ。
だからテーマを一つに定め、文章を推敲し、構成を練る。
そうして書かれた面白い「作品」としての感想が世の中にはある。
その文章の巧みさや論理の美しさ、執筆者の豊富な知識などに魅了され、自分も書いてみたいと思うこともある。
しかし、別に面白い感想なんか、作品としての感想なんか書く必要はない。
いや、書かない方がいい。
noteで食ってるとかプロの批評家であるとかならそれはもう「作品」に徹すればいいが、そうじゃないのだから。
面白い作品にしようとして、スポイルされるものは確実にある。
鑑賞中たしかに頭に浮かべながらも感想記事という作品として見た時、打ち出すべきテーマと関係ない、言及してもノイズにしかならないので書かなかった要素は毎回必ずあるものだ。
そのオミットした要素が実は一番大事なことなんだ……みたいなのは都合がよすぎる話だが、何にせよアウトプットから、たとえその方が面白いとしても何かしらを奪っているのではないかと思う。
そして逆に「これは面白い『作品』にできない」という感想は投稿をやめてしまう。私が「世界99」感想の上手いまとめ方を思いつかないので記事にしなかったように。
しかし、上手いことまとめなくていいのだ。
面白くなくていいのだ。
感想は作品じゃないのだから。
感想なんて本来面白いものではないのだ。
取り留めのない雑多な言葉の羅列でしかないはずだ。
人とちがう視点を持っている必要などない。どこにでも転がっている無個性な感想で本来は何ら問題ないのだ。
なのに、面白いテキストにしようと思ってしまう。慧眼をアピールしてしまう。
ブログへの投稿というのは、ある程度まとまったテキスト量を書く、Xでダラダラと垂れ流すよりは確実に労力がかかるためか、「作品」に仕立てねばというプレッシャーが働く、欲も出る。
そして、絶対にウケると思っていた記事が滑り倒して傷つく。
こんなことになっているのは、ひとえにブログだからではないだろうか。
SNSと承認欲求がセットなのは宇宙開闢以来の常識だが、しかしこと感想という営みにおいてはブログへの投稿という形式が、承認欲求増幅装置として機能してしまっているのではないか。
ストイックに自分の心の中だけには留めておけない、誰かに見て欲しい。そんな欲望を捨てきれない人々にとってちょうどいい感想のあり方がXへの投稿なのではないか。
……いや、実際のところXでは定型的なバズワードを散りばめて大量拡散を狙ったようなポストもそれを叩くポストも無限に見るのでむしろXこそが承認欲求地獄なのかも知れない。
……でも、私が言ったことに多少なりとも共感して、金輪際noteに感想書くの辞めるわという人もきっといる。そう信じたい。
あと、面白くまとめられそうな感想が出てきた作品に出会ったらその時はもちろんこちらに記事を投稿するからその時は俺をバズの世界に連れて行って欲しい。
半端にお行儀のいい雰囲気映画/『教皇選挙』感想
映画『教皇選挙』を見た。
予告などを見ると「教皇を選出する『コンクラーベ』を舞台に陰謀入り乱れるサスペンスミステリ」みたいな雰囲気で、なんとなく私が好きそうな雰囲気だったので見ようと思っていたのだが、我が生涯最大の強敵ハンセイ氏の感想が目に留まった。
警告します。
— ハンセイ (@neoamakusa) 2025年3月22日
今、少しでも『教皇選挙』を見ようとしている貴方。
この映画は
「リベラルな思想の持ち主である教皇の死後を巡る思想の違う枢機卿による政争」
などではありません。
「何で枢機卿になれたのかも分からないバカ共が右往左往するおバカ映画」です。
見る価値はゼロです。
映画『教皇選挙』を鑑賞。
— ハンセイ (@neoamakusa) 2025年3月22日
しょ、しょ、しょ、しょ~~~~もねええええええええ~~~~……
中学生が考えたような脚本だった。
この映画がリベラルな価値観を強く打ち出していることは前評判から周知であり、氏はリベラルを蛇蝎の如く忌み嫌いオールタイムベスト映画である『天使にラブソングを』もクソ映画呼ばわりする男なのでまあ宜なるかなと思っていたのだが、一方で「バカ共が右往左往する映画」と言ったような作劇部分の評価については傾聴に値する人物なのでもある。
価値観の問題は別として普通にイマイチな映画やも知れぬとしばらく迷った末に見たのだが、氏のようにこき下ろす気にはならないものの低評価もわからんではないな……というあたりに落ち着くこととなった。
【雰囲気映画】
この映画の最大の魅力は雰囲気のよさだと思う。
ローマ教皇もコンクラーベも、当然有名ではあるもののよく知らない世界だ。
ローマ市内にあるディズニーランドくらいの大きさの国民全員教皇庁職員という謎の国で、法衣に身を包み、中世以前から連綿と続くのだろう伝統に則ったやり取りを交わす彼らは現代人でありながらファンタジーの住人*1だ。
劇中にはロゴ入りのジャンパーを着た警察や医療スタッフも登場し、枢機卿である彼らも当たり前にスマホを弄っているのだけど、そういう卑近さと荘厳さが同居する、間違いなく現代のバチカンに近しいものがあるのだろう光景をリッチで整理された画面で描かれると、私のような権威に弱い人間はそれだけである程度気持ちよくなってしまうし、結構見れてしまうものだ。
この世界に浸るだけでも、こういうのが好きな人は見る価値があるように思う。
ただ、問題は基本的にそれ以上の面白さはない映画なことだと思う。
【なんとなくのサスペンス、なんとなくのミステリ】
この映画を一番最初に知った時に私が期待したものは、「権謀術数が入り乱れ、次々に驚愕の事実が発覚し二転三転する、先の読めないスリリングなサスペンス」と言ったものだが、全然そんなことはない。
いや、たしかにサスペンスっぽい要素、ミステリっぽい要素はある。
「病で死んだとされる教皇の死の真相は……」とか「次期教皇有力候補の枢機卿を、教皇は解任しようとしていた」とか、「突然現れた誰も知らない枢機卿ベリーニの抱えた秘密」とか、教皇になるべく他の候補を蹴落とそうとする陰謀もあることはある。
ただどれもレベルは高くない。ベリーニの真実についてはなるほどと思わされるところがあったが、その真実の価値が高くなるような、インパクトを増すような開示の仕方ができていないと思う。
個人的にこの映画で問題だと思うのは、起きている出来事がどれも散発的だということだ。
あの枢機卿のスキャンダルとか、あの枢機卿による買収工作とか色々なことが起きるのだけど、それらに繋がりや流れが存在せず、選挙の中で色々なことがバラバラに起こっていくなぁ、という盛り上がりに欠けた印象が否めない。
特に問題だと思うのは、中盤に発生し流れが変わる契機になる各国同時爆弾テロが、特に誰の陰謀でもなく、別段背景も語られず、たまたま都合よく発生したテロに過ぎないということだ。
この映画は同性愛や離婚の問題、近年発覚した聖職者による児童への性的虐待など現実の、現代の教会を大きく反映しているのは明らかだし、例えば新型コロナだとか大規模な自然災害だとか、テロの枠でいうなら911やロンドン地下鉄爆破事件のような現実の出来事であれば、映画にポンと放り込んでも別にいいと思うのだけど、別にそんなこともないため、あまりにもご都合主義的な印象が否めなかった。
【ジェンダー問題の中途半端さ】
この映画の中心には、リベラルな価値観を改めて強く打ち出すことにあるのだろう。
同性愛や離婚の容認、イスラム教徒との融和、主人公格のローレンスが「多様性」という言葉を強調したり、悪役の枢機卿がリベラルを冷笑し旧来の価値観へのバックラッシュを声高に唱えることからも明らかだ。
その上で、映画の最後の真実を考えると、最も根底にあるテーマは「教会における女性の扱い」なのだと思う。
同性愛とか中絶とか離婚の容認とか、あれこれ言っても当の教会組織は古代から一貫して男性だけの、世界で最も強固な家父長制社会であり、劇中には多数のシスターが登場するが、彼女らはあくまで業務のサポート役に過ぎず、教会の主だった決定には一切立ち入れない。男性に等しく神に仕えることに人生を捧げていながら、彼女たちは決して聖職者とは呼んでもらえないのだ。
この映画の、性分化疾患であろうベリーニ枢機卿が、公にすれば聖職者として認められないだろう体で教皇となるのは、そういった組織である教会の一つの革命として描いている、のだとは思う。
ただ、なんというか弱い。中途半端な印象は否めなかった。
まず第一に、ベリーニは結局のところ男だというのが大きいだろう。
性自認は男性だろうし、男性としての人生を、疾患が発見されるまでは違和感なく歩んできたのだから。
嫌な言い方をすれば、「教会で男扱いされないかもという体の男がちゃんと男認定してもらえる話」でしかなく、教会における女性の問題とはジェンダーという繋がりこそあれ別物だ。
「女と違ってちゃんと下駄はかせてもらえるもらえる側の性別でよかったね」という図式になりかねないのではないだろうか。
現実感を無視してこの映画のメッセージだけに着目するなら、「完全に肉体も自認も女性の人物が、そのことを公にした上で教皇に選ばれる」というストーリーにしなければ筋が通らないのではないだろうか。
もちろんそれは、教会という組織の現状を考えるとあまりにも非現実的な着地なのだろうけど。
教皇に選ばれるという実在の男性社会での成功。女性に焦点を当てること。それをハッピーエンドに持っていくこと。
これら全て成り立たせようとしたせいで、「聞こえのいいことを言っているが中途半端」という印象になったのではないか。
シスターを主人公に、もっと徹底して教会における女性を描くことに注力すればよかったのではないか。
教会というかキリスト教が男尊女卑の差別的な宗教であることは言い逃れの余地なく事実であろう。
これは劇中のリベラル気取り聖職者全て、主人公ローレンスにも何ならベリーニにも言えるが、女性がシスターでしかいられないことを明確に非難していない。
そういう、根幹の女性差別を聖域として守り安住することをあれこれ言い逃れようとする男たちの醜悪さを描けばよかったのではないか。
できないことはないはずだ。ネタは現実の教会が無限に生み出してきたのだから。そこを不快感のない範疇で収めようとするから雰囲気のよさ以上のものがない映画になったのではないだろうか。
半端な覚悟ならドブに捨てましょ。
そういう映画だったと思う。
*1:こういう消費の仕方もまああまりよくないのだろう。
正しくない欲、小児性愛/『正欲』感想
映画『正欲』を見た。
原作は朝井リョウの同名小説。「水に欲情する」性嗜好を巡る物語であり、「水フェチ」達それぞれの生きづらさを群像劇的に描くところから始まって、ストーリーが進むにつれて彼らが交わり、終盤一つの事件へと繋がる構成だ。
映画としての評価で言うと、「悪くはないが原作を読んだ方がいい」という感じだった。
実写化にはつきものだが二時間そこそこの尺で原作をほぼそのまま再現しているためどうしても掘り下げ不足が目立つ。
特に、『正欲』は人物の内面描写が全てと言ってもいい作品だ。
作中に登場する水フェチたちは総じて自己憐憫が強く、視野が狭く、いわゆる「普通の人」に対してやたらと攻撃的だが、原作は彼らがそうなってしまう個々の体験に説得力があった。
映画版でもそういう内面は描かれてはいるのだが、心理を丹念に描くことにおいて、そしてこの映画の尺で、小説に勝つのは難しいのだろう。
内面が小説ほどに見えない登場人物は、表面的なふるまいの印象ばかりが先に立ち、妙に情緒不安定な印象に見えてしまう。*1
また、映画はオシャレというか小綺麗な雰囲気があり、原作の汚さ、生臭さを伴った筆致の方がテーマに合致していると思う。
BGMの使い方もよくなかった気がする。BGMはよくも悪くも受け手に演出したい雰囲気を強要する力があると思うのだけど、BGMの持つ雰囲気と劇中の文脈に不一致を感じる場面があった。
ただ、原作でも感じ、映画で改めて思ったのが、この作品のテーマ面での不満だ。
【『正欲』とは何か】
タイトル『正欲』が意味するところは、「社会的に承認されている性欲」だろう。
劇中ではその筆頭として「同年代の異性への性欲」が置かれ、さらに近年のLGBTQへの理解を示す世界的な流れを踏まえて、異性愛、同性愛、両性愛が「正欲」に位置づけられている。
しかし、劇中の「水フェチ」達は、そういった世間の理解者ヅラに反発する。
台詞をちゃんと覚えていないので私の解釈でしかないが、ニュアンスはこんなところだと思う。
「所詮お前らが想定してるのはたかだか同性愛程度の癖に、自分たちの性欲なんか想像だにしない癖に」
「『多様性』は本来不快で仕方ないものの存在も含んでるはずなのに自分たちが不快にならない性嗜好にだけフレンドリーなツラをして気持ちよくなってんじゃねえよ」
思いきり嫌な言い方をすれば、同性愛者を「かわいそうランキング上位のくせに」と攻撃する弱者男性に近い。
弱者男性はさておき、水フェチが、この流れの中で自分たちの性欲を全く想定しておらず、そのことに気づきもしない世間に怒りを募らせるのはまあ無理からぬことかもしれない。
この作品は、「正欲」から疎外されている、自分たちはこの社会に決して馴染めないと思い込んでいる水フェチたちが同じ嗜好の持ち主と出会い、自分の欲求を自分で許すことができるようになる自己肯定の物語だ。
そのテーマ自体に文句はない。普遍的であり同時代的だ。
しかし、実際のその描き方は、小説として大変に巧みである一方で大きな欺瞞も抱えている。
それは小児性愛の扱いだ。
【無害な水フェチ、有害な小児性愛】
一般に知られる中で最も嫌悪される性嗜好が小児性愛だと思う。
世間の目に触れるケースの多くが犯罪、それも子供を対象にしたものというのが大きいだろう。
インターネット上では実際の加害行為への非難を超えて、小児性愛であること自体を、治療を受けるべきとか、子供を性欲の対象にしていることが未熟でキモい、大人になれていないなどと断罪する言説で溢れている。
小児性愛は紛れもなく、正しくない欲だ。
子供を未熟で自己決定権のない存在として庇護する社会で、小児性愛が「実行しない限りは何の問題もない」と広く市民権を得る社会は恐らく来ないのではないかと思う。
ひるがえって、作中の水フェチはどうだろうか。
作品序盤で「小児性愛どころじゃない異常性癖が世の中いくらでもある」と語られていて、たしかに自分も原作を読むまでは想像もしなかったし、作中でその性嗜好を吐露された検事には嘘をついているとしか思われなかった。
しかし、本当にこういう性癖なんですと信じてもらった上で、どちらが嫌悪されるかと言えば間違いなく小児性愛だろう。
水フェチはたしかにマイナーで、信じてもらえない、信じてもらったとしてもネタにされ、笑われる可能性は高いだろうが、小児性愛ほどの純然たる嫌悪をぶつけられるとは到底思えない*2。
何故なら水フェチは無害だからだ。
対人でない、欲求を満たす上で人を害する可能性から遠い対物性愛は、性犯罪の大部分を占めるだろう異性愛よりはるかに加害性から距離がある。
作中では水が噴き出す様を見るために水道の蛇口を盗むという「性犯罪」が描かれているが、言ってしまえばそれくらいの、被害者には申し訳ないが窃盗や器物破損程度の有害さが関の山なのだ。
原作にもあったか憶えていないが、「『自分に正直に』とかいうけど俺はその正直な自分が終わってるんだよ」と水フェチの一人が言う場面がある。
しかし彼はその後、同じ水フェチたちと水場に赴き安全に無害に性欲を満たしている。
水フェチは、水というモチーフもあって、映画のみならず汚らしく生臭い原作においても透明な、清浄ささえ感じられるイメージで描かれているように見えた。
正欲という言い方を借りるなら水フェチはさながら『聖欲』だ。
「不快にならない範疇の多様性しか許容しない」という多様性の欺瞞を登場人物に糾弾させておきながら、全く不快感を喚起しそうにない性嗜好を中心に据える。
それでいいのだろうか。
【ペドフィリアベイティング】
まあそれでも、単に無害で透明な水フェチたちが居場所を獲得する話なら嘘臭さ、不徹底さは感じつつも別によかった。
しかし、前述の欺瞞性を際立たせるようなことをこの作品は敢えてしてしまっている。
劇中に小児性愛者が登場するのだ。
本作のクライマックスではオフ会のために集まった水フェチたちが小児性愛者と誤解され警察に逮捕される。
理由としては水場で遊んでいた男児の姿を撮影したためであり、発覚するきっかけはメンバーの中に本物の小児性愛者、且つ少年相手の性犯罪を働いた男が混じっていたことだ。
この展開を成立させるため以外で小児性愛者が劇中に登場する必然性はない*3。
逮捕という水フェチたちの最大の危機は、劇中における小児性愛者だと「誤解」されたためなのだ。
実質的には小児性愛者が逮捕されたと言ってもよく、劇中で最大のマイナスイメージを向けられているのはやっぱり小児性愛者ということになる。
じゃあ小児性愛者こそが正しくない性欲ってことじゃん。何でそっちをメインにしないの?
小児性愛は水フェチたちが誤解されるためのダシでしかなく、また、誤解でない本物の小児性愛者は有害性を発揮した犯罪者しか登場しない。
物語を通して正しくない性欲のままだ。
水フェチたちのような小児性愛への(犯罪の成果物を共有する共犯者とかではない)理解者は存在しない。
もちろん、水フェチたちが「自分たちはよくて小児性愛はダメ」などと言っているわけではないし、劇中に登場する小児性愛者が現に子供に手を出してしまった男一人だというだけで小児性愛をはっきり否定しているわけじゃない。
作品を象徴する「この世界にあっちゃいけない感情なんてない」という台詞には小児性愛だって包含されているというのも、理屈としては成り立つと思う。
しかしそれはあくまで理屈だ。
言おうと思えば言える、という話でしかない。
言おうと思えば言えるのに、言っていない。水フェチには言ってるのに。
小児性愛者は有害な形で発露した犯罪者しか登場せず、そのことが招くだろうマイナスイメージを作家なら想像できないわけもないのに何らフォローもしていない。
正欲になれない水フェチたちが無害に、小綺麗に自己実現していく物語で、正欲からはさらに遠く、有害な形でしか登場しない小児性愛。
朝井リョウは小児性愛をこの小説の中でどう位置付けているのだろうか。
小児性愛を包含していることを描かずにこの小説のテーマは完成するのだろうか。
善玉は顔がよく、悪人はブサイクという描き方をしながら脱ルッキズムを唱えている、そんな印象の作品だ。
そして、こんな根本的な瑕疵があるにも関わらず『正欲』は間違いなく傑作と言えるのが作家・朝井リョウの恐ろしさなのかもしれない。
バービーは現実のお人形か?/映画『バービー』感想
映画『バービー』を見た。事前に原爆とかラストの産婦人科の意味とかあれこれノイズも耳に入っていたのだけど、見てから思い出したのはこのツイートだ。
映画、バービー観た。最初の方はお洒落だし可愛いし笑いながら観てたけど後半になるにつれてだんだん冷めていった。なんか強烈なフェミニズム映画だった。男性を必要としない自立した女性のための映画。こんなの大ヒットするアメリカ大丈夫なの? pic.twitter.com/hNqkOQy0By
— 奥 浩哉 (@hiroya_oku) 2023年8月11日
強烈なフェミニズム映画なのは冒頭のナレーションの時点で明らかだったと思うが、それはそうと正直この意見も部分的にはわからなくもない。
全体のストーリーは概ね文句ないし楽しかったが、後半になってそれまでとトーンが変わったように感じるのもたしかだ*1。
この映画では現実世界と別にバービーランドなる世界が存在していて、バービーと、その恋人役の男性キャラクター・ケン*2たちが概ね仲良く暮らしている。
現実世界の人間の思念が影響して足が扁平になる、セルライトができるといった異常に見舞われたバービーは思念のもととなった少女を探し、ケンと共に現実世界を訪れる。
目当ての少女を見つける(実際の思念の主はその母親だったのだが)ものの、自分は愛されていると当然のように思っていたバービーは、少女の口からバービーは唾棄すべき存在、女性を性的客体として貶めたフェミニズムの敵だと罵声を浴びせられることになる。
一方のケンは「バービーの彼氏役」というバービーありきの存在だった自分たちケン≒男性が現実では社会の主導権を握っているのを知ってバービーランドも斯くあるべしとマチズモに目覚める。
結果、女性の女性による女性のための世界だったバービーランドは一転してケンが支配する男系国家ケンダムとなるのだが、現実からやってきた少女と母親はバービーたちに戦うことを説いていき、バービーランドを舞台に男女の階級闘争が幕を開ける……。
奥浩哉の言った通り「強烈なフェミニズム映画」なのだが、前半に関しては同氏も「お洒落だし可愛い」と称賛している。
冒頭から直球のフェミニズム言説はあるものの、その後は「お人形の世界」として極端に戯画化されたバービーランドの描写に始まり、現実世界を訪れてからの男系社会の描写もよくも悪くもギャグ的だ。
この非現実性によって現実を想起させる具体的なフェミニズムと距離を置き、現実でアンチフェミの観客も「笑いながら観」られるものになっている。
それが後半になるとお人形の世界は「現実」へと肉薄する。
ケンダムではバービーたちの独占していた大統領、大臣、医師弁護士学者といった要職はごっそりケンたちに奪われ、バービーたちはケンのトロフィーやマンスプレイニングの客体でしかなく、さらに、当の彼女たちまでもがその状態を楽しみ、知識階級だったはずのバービーは頭使わなくていいって最高みたいなことを宣う。
そんな彼女たちに、現実からやって来た母娘は女性の窮状とエンパワメントを訴え、次々に洗脳から解放していく。
このシーンを見て思ったのは、「それって現実の話じゃない?」だ。
現実でフェミニズムに女性が賛同するのは、実際に男系社会で貶められ、男に従属させられてきた経験が多かれ少なかれあるから、個人の経験としてはそれほどでないとしても他の多くの女性がそうした目に遭っているのを知っているからだろう。
しかし、バービーたちはケンダムでの扱いを楽しんでいる。
もちろん、あの体制が続くにつれて楽しいだけでなくケンからの屈辱的な扱いも含むこと、それに抗う権利までもケンに奪われていることに気づくバービーは出るかもしれない。
でも、それは自分たちで楽しくないと気づく過程を描かなきゃダメじゃない?
自分たちは全然苦を感じていない状況に対して女ってこんなに惨めなんだと言われても、彼女たちからしたら「は?」じゃないだろうか。
また、その前段階の、バービーたちがケンに支配されるのを楽しんでいるというところにも疑問がある。
あれは現実でも男性優位の価値観を内面化している女性が多いことのメタファーだろう。
しかし現実でそうした女性が多い最大の要因は、「そういう社会で育ったから」のはずだ。
人間はもともとの環境を正しいものと見なす習性があるし、男系社会の理不尽さは端々で感じながらも概ね慣れてしまい、自分の人格に深く根を張っている価値観にわざわざ逆らうほどのモチベーションは湧かない。社会がなかなか変わらないのは人間が基本的に保守だからだ。
でも、バービーランドはずっと女尊男卑社会だった。
インテリバービーたちは自分たちの学識や任された立場を誇っていた。それを突然ケンに奪われたのだ。何の抵抗もなくその後の「ケンの女」としての生き方を満喫できるなんてことあるだろうか*3。
この映画のモブバービーは、ケンが今日から俺たちの天下だと言えば即彼らの女に成り下がり、その後彼女たちに実感があるとは思えない女の苦しみを吹き込まれて突然フェミニズムに目覚める、まるで個々の人格を感じられない描き方をされている。それこそ着せ替え人形のように。
この映画は、「お人形のバービーが現実同様の自立した人格の女性になる」という明確な流れがあるのだが、その映画でバービーたちがフェミニズムへの目覚めにおいてすらお人形にしか見えないのではメッセージは台無しなのではないか。
フェミニズム自体に反発する層がたしかにいる以上、フェミニズムを描くのが悪いと言っているのではない、というのはすっとぼけに近いかも知れない。
ただ、フェミニズムに限らずフィクションに現実的なメッセージを持ち込む際、それがあくまで作中世界から出た言葉であるように作中世界を作らなければ、メッセージは物語から浮いたただのメッセージになってしまう*4。それなら、現実で現実の問題について直接メッセージを発した方がずっと誠実だろう。
バービー人形で遊ぶ現実の女の子を題材にフェミニズムをやることはできても、バービー人形の世界というものを出してそこでフェミニズムをやるにはいくつものステップを踏む必要があるのではないか。それを怠った映画に見えた*5。
*1:もちろん反感の要因として奥浩哉が単純にアンチフェミなのはあるだろうけど
*2:自分のようなバービーに詳しくない人のために言うと、少数の例外を除いてバービーランドでは女性≒バービー、男性≒ケンであり、これまでに発売された商品のバージョンの数だけ多様な容姿、人種、職業のバービーやケンが存在するらしい
*3:バービーランドの国家運営が現実同様に大変な難事でケンダムの樹立で全ての労苦から解放されたならまだわからないでもないが、死も災害も犯罪者も恐らくいないあの世界でそんなことはないだろうし、そもそもバービーランドは毎日飲めや歌えやの暮らしだった
*4:例えば『黒博物館 三日月よ、怪物と踊れ』では19世紀イギリスを舞台にフェミニズムをやるべくフェミニストの走りと言われる女性を母に持つ女性作家メアリー・シェリーを主人公に据え当時の女性にまつわる言説への丹念な取材の上に描かれている。
*5:ここまで言っておいてなんだが、全体には面白い映画だと思う。見ていて楽しいし、男尊女卑社会を女尊男卑社会に戻しかけたところで男女が手を取り合う形に落ち着き、ケンがバービーを踏み台にした男らしさから降りた一個人として歩み出す結末は男性の在り方としても現代的だ。






