はじめに言っておくとこのタイトルは嘘である。そこまでは思っていない。
嘘だが、「こんな描き方をするなら出さんでいいよ」と言いたくなるフィクションが多いのはたしかだ。
なぜかというと、フィクションに登場する反出生主義はほとんどが似非だからだ。
本記事は、フィクション内反出生主義が似非となってしまう理由への私見である。
【大反出生主義時代】
反出生主義的な思想は古代から存在したようだが、恐らく日本において一般的な知名度を得たのは2010年代後半からだろう。
反出生主義の思想は一言で言えば、「産んでくれなんて頼んでない」だ。
これは長らく反抗期の子供がほざく戯言としか捉えられてこなかったが、この言葉が真剣に捉えられるようになった、反論不可能な問いであることに気づかれ始めたと言ってもいい。
20年代に入ってからはコロナに戦争に気候変動と人類の先行きを悲観させる要素が押し寄せたせいもあってか、この思想に理解や賛同を示す声は、新聞やテレビ番組でも時折特集が組まれるほどに高まっている。
そんな現実を反映しているのだろう。
フィクションにおいても反出生主義を扱ったり間接的にせよ言及したりする作品がちらちらと出てきたように思う。電撃文庫のライトノベルに登場した時はおどろいた。
直近ではジャンププラスで公開され話題になった読み切り『utopia』でも、反出生主義に近いニュアンスの台詞を登場人物が口にしているし、同作の公開当初に作者がブログで同作について反出生主義に反論したかったと述べている。*1

恐らくその中で最も有名なのは『進撃の巨人』だろう。インターネットで反出生主義者と言えばべネターでもショーペンハウアーでもなくジーク・イエーガーを真っ先に思い浮かべる人が多いのではないだろうか。

ただ、『進撃』にしてもそうだが、先述した通り、肯定するにせよ否定するにせよ、多くの作品で描かれる反出生主義は似非である。*2
そうなる理由が作者の無知か不誠実かは作品によるのだろうが、似非になってしまうのは、反出生主義がフィクションで扱うには難があることも理由だろうと思う。だから、そもそも無理して出さんでいいよと言いたい。
最近読んだ『生を祝う』もまさにそう言いたくなる作品だった。
【『生を祝う』の似非反出生主義】
『生を祝う』は、レズビアンカップルの生殖を題材とした小説だが、その核になる設定として同意出生制度というものが登場する。
劇中では「普遍文法」なるヒトの脳が生まれつき持つ言語が発見され、その普遍文法によって子宮内の胎児と簡単なコミュニケーションが可能となった。
同意出生制度は、この普遍文法によって子宮内の胎児に様々な指標からなる「あなたの人生で予想される生きづらさ指数」を提示し、その上で生まれることへの同意を得ること、胎児が同意を拒否した場合は中絶することを義務付けるものだ。
胎児の拒絶を無視した「非同意出生」は犯罪であり、生後に子供がそれを知った場合、親は刑事責任を問われる他、安楽死の費用を負担しなければならない。
その制度が始まって30年ほど過ぎた結果、主人公たちも含め、非同意出生は子供に人生を強要する非道な行為であり、そうやって生まれさせられた子供や胎児との意思疎通技術が確立される前に生まれた子供は被害者として扱う世論が形成されている。
劇中で非難されている非同意出生は現実の出生そのものであり、作中は反出生主義が完全に社会正義となった世界、という図式だ。
物語では、主人公のお腹の子供が出生を拒否したために主人公は同意出生を疑い始め〜と色々あるのだけど、そういったストーリーへの評価は本論の趣旨と関係ないためここでは割愛する。
この同意出生制度におかしさを感じなかっただろうか。
胎児の脳に何がわかるんだよとかそういう技術的な問題ではなく。
いや、それ、
ただの自殺やんけ。
言うまでもないが、胎児はすでに生きている。現行の法律だって22週以降の胎児は人として扱う。*3
作中における「出生」には「子宮から出る」という意味しかない。
同意出生とか言っているが、実態は
「あなたが子宮から出た後の人生の見通しって点数評価だとこのくらいだけど、生きる? 死ぬ? 死にたいなら今すぐ殺してあげるよ」
という安楽死に他ならない。
生きるのが嫌になった子供の安楽死費用を〜という設定を見るに、作中世界は無条件安楽死が常に許容されているエクストリーム自己決定主義社会なのだろう。
仮に作中のような胎児とのコミュニケーションが可能になったとして、反出生主義者たちは「その制度なら出生の倫理的問題はクリアされているね。反出生主義者的にもオッケー」と言うだろうか。言わないと思う。
彼らは思うはずだ。
そもそも作るな。
子供の人生は受精卵の段階から始まっている。生まれる=子宮外に出ることは人生10ヶ月目前後で発生するイベントでしかない。
作中ではこの同意出生制度への様々な疑問が発せられているのだが、「生まれることへの同意を得る段階ですでにその子供は『生まれて』しまっているじゃないか」というコアな問題は問われていない。
それを言い出すとこの設定の意味がまるきりなくなるからだろう。
『生を祝う』と似たようなSF的設定で反出生主義を扱っている作品に『射手座の香る夏』収録の短編『十五までは神のうち』がある。
この作品ではタイムマシンの発明によって自分が胎児だった時点で母親に中絶薬を投与し、自分を生まれてこなくする権利が認められている設定だ。
これも同じ問題を抱えている。
自己中絶の決定を下すのはすでに生まれている未来の本人なのだ。
両作の設定に共通するのは「生まれてくることに同意を得ることは不可能な以上、絶対に生殖は不当である」という反出生主義の根幹部分に挑戦している点だ。
両作品ともSF的な設定によって「生まれる前の、生まれることに合意を問える子供」という本来存在し得ない存在を登場させ、彼らに問うことでこの問題の解決を図っている。
図っているフリをしている。
何故「フリ」かと言えば、そこで描かれるのは「生まれることへの合意」でも何でもないからだ。
『生を祝う』の胎児も、『十五までは神のうち』の未来の本人も「生まれてこない」決定をする主体がすでに存在してしまっている以上、作中で言うところの「生まれてこない」はただの自殺にしかなっていない。
唯物論的な世界観である限り、「生まれることへの合意」は科学的にというより論理的に不可能なのだ。
また、先に挙げたジーク・イエーガーも最終的に「また生まれてもいい」という結論に辿り着くわけだが、ここで「生まれてもいい」と発しているジークはやはりすでに存在している主体である。
ジークの「生まれてもいい」は「存在の継続」への容認とも言い換えられ、つまりそれは「生きたい」に他ならない。
『生を祝う』『十五までは神のうち』における「生まれたくない」は「死にたい」であり、ジークの「生まれたい」は「生きたい」なのだ。

諫山創はともかく『生を祝う』作者の李琴峰も『射手座の香る夏』作者の松樹凛も、ここまで明らかな論理的破綻に全く無自覚だったとはちょっと思えない。
具体的に作品外の何かを読んだわけではないので完全な憶測だが、両氏は似非になると自覚しつつ、わざとズレた扱い方をしたのではないかと筆者は考えている。
それは、真正反出生主義はフィクションでウケが悪すぎるからだ。
【反出生主義の問題点】
反出生主義のウケが悪いというのは、何もそれが人類滅亡をよしとする思想だから、極めてネガティブな考えだからというだけではない。
露悪的なフィクション、厭世的なフィクションは世の中にいくらでもあるが、反出生主義はそれらの作品と比べてもテーマとしての致命的な欠陥を抱えている。
それは子供の不在だ。
例えば児童虐待を描いた作品で被虐待児やサバイバーを描かないというのはあり得ないだろう。
描いた方がいいに決まっている。被害者であり、救われるべき者、彼らこそが最も受け手の感情をくすぐる。
しかし、「子供を作ってはならない」と唱える反出生主義において、このメソッドは使えない。
反出生主義は子供を救えない。子供という時点で手遅れだ。
「生まれずに済んで救われた子供」を描くことはできない。生まれなかったということは最初から一瞬たりとも存在しなかったということだからだ。
『生を祝う』や『十五までは神のうち』はすでに生まれてしまっている子供の自殺を「生まれることを回避した」かのように演出しているに過ぎない。反出生詐欺と言ってもいい。
どうも「出生主義者」たちは、未来に生まれてくる子どもたちが舞台袖で座って待っているとでも無意識に思っているらしい。違うだろう。未来は端的に「無」だ。生まれなかった子どもから失われるものなどない。だって、いないんだから。(引用元:『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』©品田遊/株式会社コルク)
生まれる子供、という最も訴求力の強い存在を使えず、もう手遅れの奴らしか出てこない。
誰も救えない。手遅れの存在を増やさなかったということだけが反出生主義の成果であり、手遅れにならなかった子供は仮定の可能性の中だけの存在だ。
そんな思想はフィクションで魅力的だろうか。
フィクション、いやエンタメフィクションは論理よりも感情への訴えを重視するものだと思う。
そもそもエンタメは感情を動かすものだからだ。
多くの作品ではキャラクターの見た目が美麗だし、とにかく美少女にものを語らせたがる。
同じことを言ってても美少女の方が好意的な感情への訴求力が高いに決まっているからだ。
感情への訴求力と論理的な正しさがドッキングするのが理想的なエンタメだろう。
反出生主義は感情に訴求するような成果など挙げられない。
反出生主義の論理を曲げずに描くということは、感情への訴求を欠いたままひたすら理屈をこねることに終始するということだ。
私が数少ない、似非ではない反出生主義を描いていると思う作品として、先に引用した『ただしい人類滅亡計画 反出生主義をめぐる物語』があるが、これは「反出生主義の是非についてひたすら会議をしてるだけ」というまさに理屈をこねるだけの作品だ。
反出生主義のフィクションが反出生詐欺に陥らないのが如何に難しいかという傍証だろう。
【似非反出生主義概観】
フィクションの反出生主義のほとんどは似非と書いたが、その「似非さ」には二つのパターンがある。
パターン1:『生まれる前の主体モドキ』が存在する設定を作り、反出生主義の前提を崩壊させる。
パターン2:『反出生主義』を『自分の人生の否定』にすり替える。
パターン1、つまり『生を祝う』や『十五までは神のうち』がこの例だが、これらは前提を壊しているとはいえ反出生主義をある程度尊重している作品が多いように思われる。
というか、反出生主義に一定の共感を抱く作者が訴求力のなさを解消しようとして使う反則技なのだろう。
それに対してパターン2は、はっきり言えば反出生主義を否定するためだけの手法だ。反出生主義を描いたフィクションの大部分はこちらである。
例えばジーク・イエーガーが筆頭だが、彼のエルディア人絶滅計画が、ストーリーの文脈上、自分が不幸であることから出発しているのは明らかだ。
自分は不幸である
→自分は生まれてきたくなかった
→自分の不幸の背景にはエルディア人であることがある
→自分のような幸福を望めない人間=エルディア人は生まれてくるべきではない
という流れだ。
はっきり言えば、ジークの反出生主義は「死にたい」を拡大したものでしかない。
だから、ジークの反出生主義を巡る感情の流れは「この世界で生きることは幸せか」に終始し、最後は絆される形で「また生まれてもいい」という名の「生きたい」に着地してしまう。
現実の反出生主義者への揶揄として「生まれてきたくなかったってならさっさと死ねばいいのに生きてるのはおかしい」というようなものがよく見られる。
この揶揄は的外れだが、多くの反出生主義否定作品ではこの揶揄を半ば肯定しているような描き方が多い。
そこでの反出生主義者はジークがそうであるように「生きていたくない」の言い換えで「生まれてきたくなかった」と言っているに過ぎないからだ。
比較的最近の作品では『森栄完爾と十二人の知らない子供たち』という小説でも、反出生主義者の少女が登場するのだが、彼女には子供を中絶してしまったという過去があり、自分は生まれてくるべきではなかった、という主張に行き着いている。
作中では反出生主義自体がテーマなわけではないため彼女の主張がそれ以上に取り沙汰されることはなかったが、反出生主義を個人の自己否定に矮小化しているフィクションの一例だろう。
【『生まれてこない方がよかった』という誤謬】
フィクションに限らず、現実で反出生主義を取り上げる際の定番のフレーズとして「生まれてこない方がよかった」というものがある。本職の哲学者が反出生主義を紹介するテキストでもこの言葉を冠したものが少なくない。
それだけ端的でキャッチーな、名コピーということなのかもしれないが、はっきり言ってこの言葉は間違っている。
何故なら、反出生主義は生殖能力を持つ人間に生殖を禁じる思想だからだ。
「親になるな」「作るな」という思想なのだ。
翻って、「生まれてこない方がよかった」「生まれてきたくなかった」といった言葉はどうだろうか。
これらの言葉は子供目線だ。
親を咎めるのが反出生主義なのに、その親によって作られた側の子供の自己否定の問題であるかのように誘導している。
我々は生まれたのではない。
生まれさせられたのだ。
親のセックスなり人工授精なりで勝手に作られたのだ。
生まれない方がよかったも何もない。我々にそんな余地はなかったのだから。
作らないという選択の余地がある親が勝手にやったのだ。
はっきり言って、「生まれてきてよかったのか」という問いは「自分の人生はいいのか悪いのか」にしかならない。
そこでの判断材料は自分の人生だからだ。人生が幸福であったならこんな問いは出てこないだろう。
しかし、どれだけ幸福でも「親が自分を作る行為は不当だったのではないか?」という問いは立てられるし、この観点において親の選択は間違いなく不当である。
生きる義務死ぬ義務を負った子供を一方的に生み出したのだから。結果がどうなろうと関係ないのだ。当たりか外れかわからないクジを引いてその結果を他人に背負わせているのだから。
しかし、「生まれてきたくなかった」はそこに至らない。自分の人生の話に終始することになる。
だから人生が好転したり、あるいは不幸を受け入れたりすることでたやすく「生まれてきてよかった」に流されてしまう。
結局、パターン1もパターン2も、反出生主義への肯定か否定かのちがいこそあれ、「子供の側を主役にする」という誤りが通底し、そのために反出生主義の本来的な論理を歪めている。
そしてなぜこんな誤謬に陥るのかと言えば、苦しめられる側としての感情的な切実さがないと、フィクションでは魅力的にならないからだろう。
例えば、反出生主義は子作りを悪行と見なすが、その悪行によって生まれてしまった子供の人生を否定するわけではない。
生まれたこと、生きていることは取り返しがつかないのだから生きていいし、幸せになっていい、なった方がいいのだ。
だから、理想的な反出生主義者というのは「僕の人生はめちゃくちゃハッピーだけど、それは結果オーライであって親が僕を作ったのは不当だよね」と主張することになる。
しかし、こういった人物をフィクションで描いたら魅力的だろうか。
主張する本人の人生という最大の「重み」がそこにはなく、子作りを冷笑するために理屈こねてるだけの不愉快な人物に見えるのではないか。
自分が不幸であり、そこから出発して反出生主義者になったキャラクターの方が間違いなく感情的に理解しやすい。
そして、不幸がバックグラウンドである以上、不幸の解消や納得によってなし崩し的に反出生主義を捨てるのもやはりわかりやすい。
現実においても、反出生主義を標榜する者の主張はただの優生思想と結びつきがちだ。貧乏人や障害者は子供を作るな、というような。ジークのエルディア人絶滅計画だってそうだ。
しかしこれも、「自分が不幸だから」を出発点とする反出生主義者の、ある種必然の帰結だろう。
自分が不幸であることを拡大解釈で他責しようとしたら、自分みたいな子供を生み出す可能性の高い人間は子供を作るな、というのが、感情的な落としどころとしてある意味妥当だからだ。
しかしそれは、ここまで書いてきた通り反出生主義として間違っている。
【フィクションに反出生主義を出すのはやめよう】
つまり反出生主義とはこういう思想である。
あなたが不幸なことはどうか解消されて欲しいと思う。
ただ、たとえあなたがどれだけ幸福になろうが、親があなたを作ったのは不当であったことは忘れないで欲しい。
あなたがどれだけ幸福で子供のための財産や生育環境を整える自信があろうと、子供を作るのはそんなこととは無関係に不当なことを忘れないでほしい。
すでに子供を作ってしまった人は、その子に関しては手遅れだから全力でその子に尽くして欲しい。
ただ、あなたがどれだけ努力しようがその結果上手くいこうが出発点が誤りであったことは変わらず、だからその子で最後にして欲しい。
フィクションで反出生主義を描くとはこのように描くことだ。
幸せな子の親も不幸な子の親も一様に断罪し、全ての人間を一様に生殖の被害者として扱い、さらなる生殖を一様に禁じる。
どうだ、全然面白くなさそうだろ?
反出生主義がテーマと聞くので近いうちに読みたい。駄作だった。