サンライトノート

主に映画や小説、漫画等の感想を一定量吐き出したい欲を満たすためのブログです。本が出るとかなったら告知もするかもしれません。

正しくない欲、小児性愛/『正欲』感想

映画『正欲』を見た。

原作は朝井リョウの同名小説。「水に欲情する」性嗜好を巡る物語であり、「水フェチ」達それぞれの生きづらさを群像劇的に描くところから始まって、ストーリーが進むにつれて彼らが交わり、終盤一つの事件へと繋がる構成だ。


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映画としての評価で言うと、「悪くはないが原作を読んだ方がいい」という感じだった。

実写化にはつきものだが二時間そこそこの尺で原作をほぼそのまま再現しているためどうしても掘り下げ不足が目立つ。特に、『正欲』は人物の内面描写が全てと言ってもいい作品だ。作中に登場する水フェチたちは総じて自己憐憫が強く、視野が狭く、いわゆる「普通の人」に対してやたらと攻撃的だが、原作は彼らがそうなってしまう個々の体験に説得力があったのに対して、映画版では描かれていないわけではないにせよ厚みを描いており、情緒不安定に見えてしまう。*1

また、映画はオシャレというか小綺麗な雰囲気があり、原作の汚さ、生臭さを伴った筆致の方がテーマに合致していると思う。BGMの使い方もよくなかった気がする。BGMはよくも悪くも受け手に演出したい雰囲気を強要する力があると思うのだけど、BGMの持つ雰囲気と劇中の文脈に不一致を感じる場面があった。

ただ、原作でも感じ、映画で改めて思ったのが、この作品のテーマへの不満だ。

 

【『正欲』とは何か】

タイトル『正欲』が意味するところは、「社会的に承認されている性欲」だ。

劇中ではその筆頭として「同年代の異性への性欲」が置かれ、さらに近年のLGBTQへの理解を示す世界的な流れを踏まえて、異性愛、同性愛、両性愛が「正欲」に位置づけられている。

しかし、劇中の「水フェチ」達は、そういった世間の理解者ヅラに反発する。

「所詮お前らが想定してるのはたかだか同性愛程度の癖に、自分たちの性欲なんか想像だにしない癖に」「『多様性』は本来不快で仕方ないものの存在も含んでるはずなのに自分たちが不快にならない性嗜好にだけフレンドリーなツラをして気持ちよくなってんじゃねえよ」と。

この作品は、「正欲」から疎外されている、自分たちはこの社会に決して馴染めないと思い込んでいる水フェチたちが同じ嗜好の持ち主と出会い、自分の欲求を自分で許すことができるようになる自己肯定の物語だ。

そのテーマ自体に文句はない。普遍的であり同時代的だ。

しかし、実際のその描き方は、小説として大変に巧みである一方で大きな欺瞞も抱えている。

それは小児性愛の扱いだ。

 

 

【無害な水フェチ、有害な小児性愛


一般に知られる中で最も嫌悪される性嗜好が小児性愛だと思う。世間の目に触れるケースの多くが犯罪、それも子供を対象にしたものというのが大きいだろう。「実際に他者を害さない限りはどんな欲求にも貴賤はない」という正論では到底拭いきれないマイナスイメージがある。

ひるがえって、作中の水フェチはどうだろうか。

作品序盤で「小児性愛どころじゃない異常性癖が世の中いくらでもある」と語られていて、たしかに自分も原作を読むまでは想像もしなかったし、作中でその性嗜好を吐露された検事には嘘をついているとしか思われなかった。

しかし、本当にこういう性癖なんですと信じてもらった上で、どちらが嫌悪されるかと言えば間違いなく小児性愛だろう。水フェチはたしかにマイナーで、信じてもらえない、信じてもらったとしてもネタにされ、笑われる可能性は高いだろうが、小児性愛ほどの純然たる嫌悪をぶつけられるとは到底思えない*2

何故なら水フェチは無害だからだ。対人でない、欲求を満たす上で人を害する可能性から遠い対物性愛は、性犯罪の大部分を占めるだろう異性愛よりはるかに加害性から距離がある。作中では水が噴き出す様を見るために水道の蛇口を盗むという「性犯罪」が描かれているが、言ってしまえばそれくらいの、被害者には申し訳ないが窃盗や器物破損程度の有害さが関の山なのだ。

原作にもあったか憶えていないが、「『自分に正直に』とかいうけど俺はその正直な自分が終わってるんだよ」と水フェチの一人が言う場面がある。しかし彼はその後、同じ水フェチたちと水場に赴き安全に無害に性欲を満たしている。

水フェチは、水というモチーフもあって、映画のみならず汚らしく生臭い原作においても透明な、清浄ささえ感じられるイメージで描かれているように見えた。正欲という言い方を借りるなら水フェチはさながら『聖欲』だ。

「不快にならない範疇の多様性しか許容しない」という多様性の欺瞞を登場人物に糾弾させておきながらそれでいいのだろうか。

 

ペドフィリアベイティング】

まあそれでも、単に無害で透明な水フェチたちが居場所を獲得する話なら嘘臭さ、不徹底さは感じつつも別によかった。

しかし、前述の欺瞞性を際立たせるようなことをこの作品は敢えてしてしまっている。

劇中に小児性愛者が登場するのだ。

本作のクライマックスではオフ会のために集まった水フェチたちが小児性愛者と誤解され警察に逮捕される。

理由としては水場で遊んでいた男児の姿を撮影したためであり、発覚するきっかけはメンバーの中に本物の小児性愛者、且つ少年相手の性犯罪を働いた男が混じっていことだ。この展開を成立させるため以外で小児性愛者が劇中に登場する必然性はない*3

逮捕という水フェチたちの最大の危機は、劇中における小児性愛者のマイナスイメージありきで成立したものなのだ。じゃあやっぱ小児性愛者の方が正しくない性欲ってことじゃん。何でそっちをメインにしないの?

小児性愛は水フェチたちが誤解されるためのダシでしかなく、また、誤解でない本物の小児性愛者は有害性を発揮した犯罪者しか登場しない。正しくない性欲のままだ。

もちろん、水フェチたちが自分たちはよくて小児性愛はダメなどと言っているわけではないし、劇中に登場する小児性愛者が現に子供に手を出してしまった男一人だというだけで小児性愛を否定しているわけじゃない。作品を象徴する「この世界にあっちゃいけない感情なんてない」という台詞には小児性愛だって包含されているというのも、理屈としては成り立つと思う。

しかしそれはあくまで理屈だ。対してフィクションは印象だ。理屈で留まるならそもそもフィクションなんか作らずに現実で議論していた方がいい。

正欲になれない水フェチたちが無害に、小綺麗に自己実現していく物語で、正欲からはさらに遠く、有害な実践をしてしまった犯罪者という形でしか描かれなかった小児性愛者の印象はどうだろうか。

善玉は顔がよく、悪人はブサイクという描き方をしながら脱ルッキズムを唱えている、そんな印象の作品だ。

そして、こんな根本的な瑕疵があるにも関わらず『正欲』は間違いなく傑作と言えるのが作家・朝井リョウの恐ろしさなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:まあ、ひょっとすると二年以上前に一度読んだきりの原作を記憶の中で美化しているだけで再読したら原作もこんなものかもしれない。

*2:もちろんネタや笑いも立派な侮蔑である。

*3:このくだりはかなり不自然であり、恐らくは誤解を補強するために小児性愛者以外の水フェチまでもが、水遊びの動画を目当てに小学生のYou Tubeチャンネルを見ていることになっている。水遊びの動画ばかりではないし、水を楽しむには子供たちは無駄にうるさくて邪魔じゃないだろうか。