サンライトノート

主に映画や小説、漫画等の感想を一定量吐き出したい欲を満たすためのブログです。本が出るとかなったら告知もするかもしれません。

中身のないヤツが数を誇る/映画『ぼくらのよあけ』感想

映画『ぼくらのよあけ』を見た。

原作漫画が全2巻と短いこともあり、読んだ上で比較した方がいいかもとも思ったが、逆に純然たる映画単体の感想を書けるのは今だけかもと考え未読のまま書くことにした。

 


www.youtube.com

 

 

 

【要素が多すぎる】

今作のストーリーはこんな感じだ。

2049年、宇宙からやってきた探査船のAI・二月の黎明号に出会った小学生、沢渡悠真、岸慎吾、田所銀之助は彼が宇宙へ帰還する手助けをすることになる。その後、河合花香という女子も加わり、悠真の両親と花香の父親も地球に来た当初の黎明号を宇宙へ帰そうとしていたことがわかり……etcで、最終的に黎明号は宇宙へ飛び立っていく。

出来事としてはきちんと当初の目的を達成しているが、ドラマ的には要素が多すぎて結果どれもが不十分になったように感じた。

今作のドラマ要素は「黎明号との出会いと彼の帰還」「沢渡家の家庭用サポートロボット・ナナコの自我の獲得」「子供であることの不自由」「父親を喪っている銀之助の『死とは何か』という疑問」「クラスで孤立している花香/慎吾の姉・わことの確執」「慎吾と悠真たちとの友情」「『大人になったら黎明号を宇宙に帰すために再会する』という約束を果たしていなかった悠真の両親と花香の父」「ナナコと悠真の別れ」と非常に多い。原作はどうかわからないが、たった二時間のこの映画では要素が多すぎて持て余していたように思う。

描き方が不十分に見えた理由は要素が多いことの他に、それらのテーマ的なつながりが感じられないのも大きいだろう。

今作のメイン要素は当然、「黎明号との出会いと彼の帰還」であり、長編漫画ならともかく尺の限られた映画ではサブ要素はメイン要素に統合される形でなければ、見ている方は必要性を感じられない。

「クラスで孤立している花香/慎吾の姉・わことの確執」は劇中けっこうな時間を割いて描かれるのだが、彼女らのドラマは黎明号と全然関係ない。小学校の教室内の人間関係でしかない。クライマックスで黎明号の旅立ちを見送った後、花香がわこに「同じ地球でもこんなに喧嘩してるんだから~」みたいな無理やり黎明号に絡めたことを言うのがかえってそれを際立たせていた。

どうすればよかったかと言えば、もっとちゃんと黎明号をキャラクターの抱えたドラマと絡ませるべきだった。

彼の目的は未知の惑星である地球を知り、その体験を母星に持ち帰ることであり、であれば、地球人の友情だとか対立だとか大人と子供だとかのエピソードは大変に興味深いはずだ。

生物としても知性の在り方も地球人とは全く異なる彼の側から地球人のあれこれに関わり、疑問を呈する、何らかの答えを出すなどして地球人への見識を深める、悠真たちも自分たちの在り方を見つめ直す、そういった相互のフィードバックがあれば各要素が繋がり、生き生きとしたものになっていたんじゃないか。

(とはいえこうした描き方を全ての要素でやるには尺が足りると思えないのでやはり原作の要素が二時間映画には多すぎたのだと思う)

【物足りないメインテーマ】

サブ要素が多すぎて描ききれていないと書いたが、今作のメイン要素のはずの「黎明号との出会いと彼の帰還」というドラマも十分に描かれているとはとても言えなかった。

黎明号は「生命や文明が生きていくためには変わり続けること、そのために未知のものと出会い、その出会いを伝えることが大切」みたいなことを語っている。ナナコも旅立ちに際して似たようなことを言っているあたり、それがこの映画のメインテーマなのだろう。

この台詞を劇場で聞いた時に思ったのは「これそんな話なの?」だった。黎明号や悠真たちがそれを感じさせるような挙動をしていないからだ。

黎明号が地球人を積極的に学ぼうとしていないのもそうだが、悠真もまた、黎明号への強い興味を感じさせなかった。

劇中の悠真は宇宙科学にものすごく熱心な少年というキャラ付けだ。

なのに人類が初めて接触する地球外生命体、異星文明、人類をはるかに超える科学力を見せている黎明号を、悠真は深く知ろうとしない。黎明号が宇宙に帰りたいという望みには非常に協力的だが、何故素直に帰そうとするのかわからなかった。もっと地球にいてほしくないの? 他の惑星の生命や環境をダイジェスト的にしか教えてもらっていないけどいいの? 人類がまだ知らない、恐らく自分が生きているうちには到達できない領域の知識を授けてほしくないの? 帰すのもったいなくない?

劇中では黎明号が同化(?)しているマンションの取り壊しが間近でそれは黎明号の死を意味するからその前に地球を離れるみたいな話だったが、黎明号の存在を社会に公表すれば取り壊しなど即刻中止になるんじゃないか。

黎明号は人類文明全体と数千年スパンで関わってもよかったはずだ。何しろ往復2万4000年もかけて探査に来ており、母星文明はそれで問題ないとするほど長期的なものなのだから。劇中の黎明号は悠真たちとその両親というたった数人とせいぜい数ヶ月という間しか交流していない。何故もっと地球にいようとしないのか。

何故かと言えば多分、この作品を小学生メインの、小さなひと夏の冒険みたいな話にしたかったからだろう。話が大きくなれば大人たちが大勢出しゃばってきて雰囲気はぶち壊しだ。

でも、こんなこじんまりした話にして「未知のものとの出会いが大事」なんて語っても嘘臭いだけじゃない? もっと未知のものと出会えよ。

また、黎明号に次いで重要だろうナナコの存在も物語上あまり重要だと思えなかった。彼女の自我の獲得は「嘘をつくようになった」という形で表現されており、悠真のしつけ役という役割に従順で、それ故に悠真からは鬱陶しがられるだけだった彼女が独自の意思を持つことによって役割上すべき報告も偽り悠真に協力するようになっていく、みたいな話なのだが、黎明号という人類とちがう知性が登場する作品でナナコが果たす役割は何なのか。黎明号の価値も怪しい中でナナコから何を感じ取ればいいのかわからなかった。「嘘をつくことができる能力を持ちながら嘘をつかないようにしている人類は凄い」みたいなナナコによる人間讃歌もまた、本作の全く実感を伴わないテーマだろう。

 

総じてムダに多い要素に足を引っ張られ、どの要素も有機的に機能しておらず、色々言っているが何を本当に言いたいのかはわからない映画だった。描くことを絞ることの大切さがよくわかる。とはいえこれだけの数の要素が全2巻の漫画でまとめられる気もしないし、メイン軸の不十分さは尺の問題ともまた別に思えるのでこの映画がとんでもない改悪じゃない限り原作にもあまり期待せずに読もうと思う。