サンライトノート

主に映画や小説、漫画等の感想を一定量吐き出したい欲を満たすためのブログです。本が出るとかなったら告知もするかもしれません。

仮面ライダーはごっこじゃないだろ/『仮面ライダーBLACK SUN』感想

仮面ライダーBLACK SUN』を見た。

 

『BLACK』ファンから全くの初見の人まですでに多くの人が視聴し、感想も一通り出揃ってきた感じがする。

今作の出来がお世辞にもいいとは言えないのは肯定派も認めるところだ。

差別描写の薄っぺらさ、寒いスローガン、麻生安倍パロの下品さ、怪人周りの設定のいい加減さ、大人向けを標榜しながら原作そのままの子供番組的な設定……etc

無限のツッコミどころが剥き出しなため、当然のように今作は叩かれている。シン・ウルトラマンもそうなればよかったのに。

 

そんな中で肯定派は「だけど」と言う。「たしかに全然褒められた出来じゃない。だけど面白かった」と。

曰く「光太郎と信彦の関係性がよかった」「役者陣の演技が良かった」「アクションがかっこよかった」「ビルゲニアが魅力的」「原作(仮面ライダーBLACK)リスペクトが熱い」と。

光太郎信彦周りはまあわからなくもないが、ルー大柴の怪演を除くと役者の演技はむしろ滑ってるように感じたし、アクションも素直にかっこいいと思えたのは10話くらいで他は動きがもたついてて全然強そうに見えなかったし、ビルゲニアも雑改心して死んだという印象が強い。

原作リスペクトに関しては、何というか熱いと思ってしまう部分もある。光太郎が5話で初めて変身した時は興奮したし、ライダーキックも良かった。

でも、そういう熱さの、かなりの部分に関して思う。

「それって『BLACK』からの借り物の熱さじゃない?」と。

 

第5話、和泉葵がカマキリ怪人にされたと知った光太郎(演:西島秀俊)は「許さん」の言葉と共にポーズを取り、変身する。

1話からバッタ怪人として戦っていた光太郎が初めて「仮面ライダー」になる場面だ。アレンジされたデザインも実にかっこいい。

でも、光太郎は何故5話にして初めて「変身」したのか。逆にそれまでの戦いも全然楽勝ではなかったにも関わらず何故「変身」しなかったのか。

再改造手術を受けてより洗練されたフォームに進化したとか、変身は著しく老化を進めるためにこれまで使わなかったとか、そういう理由の説明は一切ない。

(信彦は光太郎の変身を知っているような口ぶりだったので昔からできたのかもしれないが五十年前の回想で戦う場面でも光太郎、信彦共にバッタ怪人の姿だった)

光太郎も信彦も特に理由なく途中までは怪人態で戦い、途中からはずっと変身するようになる。

ドラマ的な、例えば『クウガ』の2話で覚悟を決めた五代が古代の戦士と同じポーズを取って変身するような、劇中での格別な文脈は与えられていない。

にも関わらず、あの変身で泣いたとまで言う人がいるし、撮影現場でもそうだったようだし、冷めたことを書いている筆者自身、あの場面では少なからず興奮した。

何であんな適当な流れの変身で興奮したか。ずっと勿体ぶっていた「変身」を見られたからというのもあるだろうが、それ以上に『BLACK』の真似をしてくれたからじゃないだろうか。

現代の映像で、西島秀俊が「許さん」と『BLACK』『RX』ではお馴染みの台詞を発して(『BLACK SUN』の光太郎は怒りの表明で「許さん」と言うようなキャラじゃないように思う)ポーズを取ったから興奮したんじゃないの。

仮面ライダーBLACK SUNというより、BLACKごっこを見て興奮してるんじゃないの?

嫌な言い方をすればそんなふうに思ってしまう。

 

仮面ライダーに限らないが、過去作の人気キャラが出演した時、名台詞とされるものをわざとらしく言わされるのを見て、ファンサービスなんだろうけどかえって冷める、みたいな経験をした人は少なからずいると思う。

『BLACK SUN』の『BLACK』に由来する設定が浮きまくっているのは散々言われているが、一方で、熱いとされるシーンでは、同様に今作独自の流れができていない、原作にあるからやったようにしか見えないのに、イマジナリークリムゾン作品のヒロインのように興奮し、それから冷めて自己嫌悪した。

 

興奮した、とは少しちがうが、極めつけは10話のオープニングだろう。

開始時点でまさかと、曲が流れ出したときはマジかよと思った。

てつをの歌声。『BLACK』と被せた構図の映像。

笑いもした。正直あのオープニングとライダーキックのところだけ5回くらい見た。

なのだけど、思う。

「それってどうなの?」 

これは『仮面ライダーBLACK』じゃない。『BLACK SUN』だ。

何故最終回で突然『BLACK』のOPを流すの?

てつをが歌ってるOP、てつをって主演じゃなかったらただの音痴でしょ。

西島秀俊版を流せということではない。『BLACK』のOPは『BLACK』のために書かれた詞と曲のはずだ。

『BLACK SUN』は「君は見たか愛が真っ赤に燃えるのを」「時を超えろ空を駆けろこの星のため」なんて作品では全くない。

2022年に公開された2022年が舞台の、正直全然現代的にはなれてなかったけど現代性を志向したであろう作品で何故80年代風に加工した映像を流すのか。

『BLACK』がそうだったからだろう。

『BLACK SUN』の中にそうなる理由はない。

それでいいのかと思う。旧作をリメイクしてやることが、その作品の中に理由を用意できてない原作要素をリスペクトと称して放り込むことでいいのか。

それでいいなら『BLACK SUN』作らずに『BLACK』見てればいいだろ。BLACKのお面被ってごっこ遊びしてればいいだろ

 

実際のところ、特撮というお約束でガチガチのジャンルは、いや特撮に限らずロボットアニメなりバトル漫画なりホラーなりラブコメなりミステリなり大部分の物語創作はこうした「ごっこ遊び」性、パロディ性から逃れられないんだろうなとも思う。

そのジャンルのテンプレイメージから借りてきた要素を、王道と称してキャラクターにやらせる。客はそれで喜ぶ。

それでも作品世界の側に理由がなければ、非現実的な借り物なら非現実的な世界なんだと思わせる工夫がなくては、自分の意志で王道を歩むキャラクターなんだと思わせなくてはいけないのではないか。

ヒーローの仮面と縁日のお面の違いはそれを被る者がその者自身の現実の脅威と戦っているかどうかだろう。

制作陣は『BLACK』ではなく『BLACK SUN』の世界として怪人の設定を固め、現実の差別エピソードのコピペでなくあの世界の在り方に由来する怪人差別、それへの反応を想像し、南光太郎や秋月信彦に彼らの現実を生き、戦わせるせるべきだったのではないか。

だから自分の『BLACK SUN』への批判を一言でまとめるなら「ちゃんと『BLACK SUN』を作れ」という感じだろうか。

『シン・仮面ライダー』はちゃんと『シン・仮面ライダー』であって欲しいと思う。(今見ると全然かっこよくない初代のOPの再現なんかしてるあたり望み薄かもしれない)