きっちりクィア映画にして欲しかった/映画『怪物』感想
映画『怪物』を見てきた。
感想を一言で表すと「要素は面白いが面白い映画ではない」という感じだ。
この映画は二つの要素で成り立っていて、それぞれがタイトル「怪物」にかかっているのだけど、その二要素のミスマッチがこの印象の要因ではないかと思う。
【ミステリ映画『怪物』】
二つの要素とはミステリ映画の側面とクィア映画の側面だ。
まず前半はミステリとして進行する。
クリーニング店を営む麦野早織は息子・湊が学校でイジメられているのではと疑い学校に説明を求めるが、校長及びイジメを行ったとされる担任教師・保利に不誠実な対応をされた上、さらに湊が同級生の星川依里をイジメていたのだと言われる。
早織はその星川のもとを尋ねるが、湊が彼をイジメていたという印象は持てないまま、事態は学校側の謝罪会見を経て、湊が保利に階段から突き落とされた、というところまで発展する。
その後、視点人物が沙織から保利へ移り、前半の舞台裏が描かれる。
保利は色々落ち度はあるものの早織の印象ほどにひどい人間ではなく、イジメ疑惑は偶然と誤解の産物だった。
しかし釈明の機会も与えられず、教え子をイジメた上に抗議する母親をせせら笑った最低の教師として追い詰められていき〜というストーリーだ。
前半において「怪物」は「自分から見える情報だけで他人を怪物呼ばわりすること」を意味しているように感じた。
学校側の不誠実な対応(実際、全てを見た上でも対応は最低だと思う)に憤った早織は校長はじめその場の教師陣を「あなた人間ですか?」と罵倒するのだけど、その後は実際にちゃんと人間である保利や校長が掘り下げられていく。
真相開示においても保利は勝手に自分がやったと判断した学校の保身や下世話な好奇心で追い詰められていくので、人間を怪物に仕立てる≒断片的な情報で事の真相や人物像を決めつけることの罪深さ、というテーマには十分に説得力があってよかった。
ただ、問題はこの前半が後半・クィア映画としての部分とあまり関係ないことだ。
【クィア映画『怪物』】
後半は視点人物が校長へと移っ……たかと思えば彼女はすぐに脇役となり、湊と星川の物語が展開する。
このパートでは「前半のあの出来事は実は〜」という種明かし部分もないではないが、それよりも二人の関係性の芽生えと変遷に重点が置かれている。
後半における「怪物」の意味は「クィア故に親や同級生から怪物呼ばわりされる星川佑里」だ。
(同性愛とか性同一性障害とか名言はされないが、クィア映画に贈られる賞を受け取っている以上制作側もクィアのつもりなのは間違いないのだろう)
ミステリ的な面白さは薄めだが、個人的にはこちらの方が断然好きだ。
二人の子役の演技も本当によかったし、容姿も非常に好みだった。『万引き家族』でもあったけど男子小学生が勃起したと仄めかすくだりは興奮した。映像の美しさや二人だけの秘密の場所である廃バスというロケーションもたまらなく魅力的だった。
この映画について、「監督が『この映画はクィア映画ではない』と発言しておきながらクィア映画の賞を受け取っている」との批判があり、発言についてはネットの記事くらいしか確認していないのであまり言えることはないが、「発言が本当だとしても『あくまで映画を成り立たせるための設定でクィアを描くのが主眼ではない』って意味なら別にいいんじゃない?」(賞は受け取るなよというのはまあわからんでもないけど)と思っていた。
ただ、実際に映画を見てみるとこの映画はクィア映画として十二分に魅力的だったと思うし、それだけに、前半のミステリ要素が邪魔に思えてしまった。
一本の映画として、前半と後半はあまり関係がない。
前半の主眼は「保利が湊をイジメていたと思われたが実は〜」で、後半の主眼となる湊と星川の関係性、星川のクィア性について、特に何か怪物呼ばわりするような雰囲気はないからだ。
(前半でも早織の「湊はいずれ結婚して家族を持つ」という決めつけや保利の「男なら〜」というジェンダーロール強要といった後半への布石らしき要素は散見され、こういう決めつけがクィアを怪物にするのだと言おうと思えば言えなくもないが、やはり保利へのイジメ疑惑に比べると弱く、取ってつけた感は否めない)
後半は完全に二人の世界であり、前半の主人公だった早織と保利は終盤には何ら関わってこない。
この前半と後半が分離した感覚、前半の構造が物語全体の完成に寄与しないあたりで、二人の恋物語で二時間保たないからミステリ要素で尺を稼いだかのような印象を受けてしまった。
(校長が孫を轢き殺したが夫が身代わりになった疑惑だとか冒頭のビル火災の真相だとかも示唆されこそすれ明言はされず、これらがあることで物語が面白くなっていた気もしない。無駄に複雑にしているだけだ)
あくまでクィアではなくミステリ映画のつもりにせよ、ここまでクィアという設定に存在感を持たせたならクィアや二人の関係性が真相の核心となるよう構成すべきだったと思う。保利がイジメてただのどうのはどうでもいい。
コンセプトが統一されていない、二つの怪物の歪なキメラ、そういう印象の映画だった。