ブログに感想を書かない100の理由
二週間くらい前に『教皇選挙』の感想を投稿したばかりなことには目をつぶって読んで欲しい。もちろん理由は100どころか1つしかない*1。
先日、『世界99』(集英社/村田沙耶香)を読んだ。当初はこちらに感想記事を投稿するつもりでそれなりの量のテキストを書いたのだが、やめた。
Xに垂れ流したモノで十分だ。
村田沙耶香『世界99』を読みました。『ハーモニー』……になったからハーモニーのオタクは読めばいい、いや、どうかな……になった。(伊藤計劃みたくオシャレってわけではないから)(男社会をこき下ろすし受け付けないオタクは多そう)
— 山の光 (@Sunlightshower) 2025年4月15日
『世界99』、「村田沙耶香の全てが詰まった」と下巻の帯にある通り、村田沙耶香が今まで書いてきたモチーフもテーマも全部やってるって感じに全部乗せで、そのせいで改めて、村田沙耶香ってホントにこれしか書けないな……になった
— 山の光 (@Sunlightshower) 2025年4月15日
SNSというか現Xが普及してからというもの、感想サイトという文化は絶滅寸前である。いや、何ら数字に基づいたものではないがゼロ年代とは比べるべくもないにちがいない。それを前提に進める。
読書メーターだとかFilmarksだとかレビュー系SNSはそれなりに盛況のようだが、これらは「みんなの投稿の場に参加する」というイメージで、ブログなりnoteなり、「自分だけの場所」を持つ人は今や少数だろう。多分。
恐らく感想サイト*2の衰退理由は「わざわざアクセスさせるよりもみんなが常駐してるSNSにそのまま投稿した方が見てもらいやすいし、なのにわざわざ自分のサイトを持つ意味がない」といったところで、私がこの記事で主張したいこととは別なのだろう。
しかし、理由が何であれ、私は感想サイトの衰退は歓迎する立場だ。
感想とは内に秘めたままにしておくか、誰にも見せないノートにでも書き出すか、人に見せるならXに垂れ流すくらいに留めるべきであり、個人用ブログは感想という営みを腐らせる。
【『作品』と化すレビュー】
私がこのサイトに投稿してきたレビューは全て、ではないがある時期からは明確に、一つの目的に沿って書かれている。
それはウケることだ。
映画なり小説なりをダシに自分の独自の視点をアピールし、頭いい、慧眼、文才がある……などと褒めてもらって承認欲求を満たすことだ。
記事内容がこき下ろす系のモノしかないのも、否定することでしか自分をアピールできないからだ。
私の記事は基本的に、全体のテーマを一つに定め、それに沿って作品の粗や構造的欠点を提示し、自分の批判を論理的に成立させる、という意識で書いている。
そうした方が記事として読みやすく、面白いと考えているからだ。
studio-sunlight.hatenablog.com
どの程度実践できているのか、実際に私の記事が面白いのかは置いておいて、この考え方自体はそこまで間違っていないと思う。
しかしこれは、一つの前提に立っている。
それは、感想記事を「作品」として世に出そうとしているということだ。
だからテーマを一つに定め、文章を推敲し、構成を練る。
そうして書かれた面白い「作品」としての感想が世の中にはある。
その文章の巧みさや論理の美しさ、執筆者の豊富な知識などに魅了され、自分も書いてみたいと思うこともある。
しかし、別に面白い感想なんか、作品としての感想なんか書く必要はない。
いや、書かない方がいい。
noteで食ってるとかプロの批評家であるとかならそれはもう「作品」に徹すればいいが、そうじゃないのだから。
面白い作品にしようとして、スポイルされるものは確実にある。
鑑賞中たしかに頭に浮かべながらも感想記事という作品として見た時、打ち出すべきテーマと関係ない、言及してもノイズにしかならないので書かなかった要素は毎回必ずあるものだ。
そのオミットした要素が実は一番大事なことなんだ……みたいなのは都合がよすぎる話だが、何にせよアウトプットから、たとえその方が面白いとしても何かしらを奪っているのではないかと思う。
そして逆に「これは面白い『作品』にできない」という感想は投稿をやめてしまう。私が「世界99」感想の上手いまとめ方を思いつかないので記事にしなかったように。
しかし、上手いことまとめなくていいのだ。
面白くなくていいのだ。
感想は作品じゃないのだから。
感想なんて本来面白いものではないのだ。
取り留めのない雑多な言葉の羅列でしかないはずだ。
人とちがう視点を持っている必要などない。どこにでも転がっている無個性な感想で本来は何ら問題ないのだ。
なのに、面白いテキストにしようと思ってしまう。慧眼をアピールしてしまう。
ブログへの投稿というのは、ある程度まとまったテキスト量を書く、Xでダラダラと垂れ流すよりは確実に労力がかかるためか、「作品」に仕立てねばというプレッシャーが働く、欲も出る。
そして、絶対にウケると思っていた記事が滑り倒して傷つく。
こんなことになっているのは、ひとえにブログだからではないだろうか。
SNSと承認欲求がセットなのは宇宙開闢以来の常識だが、しかしこと感想という営みにおいてはブログへの投稿という形式が、承認欲求増幅装置として機能してしまっているのではないか。
ストイックに自分の心の中だけには留めておけない、誰かに見て欲しい。そんな欲望を捨てきれない人々にとってちょうどいい感想のあり方がXへの投稿なのではないか。
……いや、実際のところXでは定型的なバズワードを散りばめて大量拡散を狙ったようなポストもそれを叩くポストも無限に見るのでむしろXこそが承認欲求地獄なのかも知れない。
……でも、私が言ったことに多少なりとも共感して、金輪際noteに感想書くの辞めるわという人もきっといる。そう信じたい。
あと、面白くまとめられそうな感想が出てきた作品に出会ったらその時はもちろんこちらに記事を投稿するからその時は俺をバズの世界に連れて行って欲しい。