サンライトノート

主に映画や小説、漫画等の感想を一定量吐き出したい欲を満たすためのブログです。本が出るとかなったら告知もするかもしれません。

半端にお行儀のいい雰囲気映画/『教皇選挙』感想

映画『教皇選挙』を見た。

 


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予告などを見ると「教皇を選出する『コンクラーベ』を舞台に陰謀入り乱れるサスペンスミステリ」みたいな雰囲気で、なんとなく私が好きそうな雰囲気だったので見ようと思っていたのだが、我が生涯最大の強敵ハンセイ氏の感想が目に留まった。

 

 

 

この映画がリベラルな価値観を強く打ち出していることは前評判から周知であり、氏はリベラルを蛇蝎の如く忌み嫌いオールタイムベスト映画である『天使にラブソングを』もクソ映画呼ばわりする男なのでまあ宜なるかなと思っていたのだが、一方で「バカ共が右往左往する映画」と言ったような作劇部分の評価については傾聴に値する人物なのでもある。

価値観の問題は別として普通にイマイチな映画やも知れぬとしばらく迷った末に見たのだが、氏のようにこき下ろす気にはならないものの低評価もわからんではないな……というあたりに落ち着くこととなった。

 

【雰囲気映画】

この映画の最大の魅力は雰囲気のよさだと思う。

ローマ教皇コンクラーベも、当然有名ではあるもののよく知らない世界だ。

ローマ市内にあるディズニーランドくらいの大きさの国民全員教皇庁職員という謎の国で、法衣に身を包み、中世以前から連綿と続くのだろう伝統に則ったやり取りを交わす彼らは現代人でありながらファンタジーの住人*1だ。

劇中にはロゴ入りのジャンパーを着た警察や医療スタッフも登場し、枢機卿である彼らも当たり前にスマホを弄っているのだけど、そういう卑近さと荘厳さが同居する、間違いなく現代のバチカンに近しいものがあるのだろう光景をリッチで整理された画面で描かれると、私のような権威に弱い人間はそれだけである程度気持ちよくなってしまうし、結構見れてしまうものだ。

この世界に浸るだけでも、こういうのが好きな人は見る価値があるように思う。

ただ、問題は基本的にそれ以上の面白さはない映画なことだと思う。

【なんとなくのサスペンス、なんとなくのミステリ】

この映画を一番最初に知った時に私が期待したものは、「権謀術数が入り乱れ、次々に驚愕の事実が発覚し二転三転する、先の読めないスリリングなサスペンス」と言ったものだが、全然そんなことはない。

いや、たしかにサスペンスっぽい要素、ミステリっぽい要素はある。

「病で死んだとされる教皇の死の真相は……」とか「次期教皇有力候補の枢機卿を、教皇は解任しようとしていた」とか、「突然現れた誰も知らない枢機卿ベリーニの抱えた秘密」とか、教皇になるべく他の候補を蹴落とそうとする陰謀もあることはある。

ただどれもレベルは高くない。ベリーニの真実についてはなるほどと思わされるところがあったが、その真実の価値が高くなるような、インパクトを増すような開示の仕方ができていないと思う。

個人的にこの映画で問題だと思うのは、起きている出来事がどれも散発的だということだ。

あの枢機卿のスキャンダルとか、あの枢機卿による買収工作とか色々なことが起きるのだけど、それらに繋がりや流れが存在せず、選挙の中で色々なことがバラバラに起こっていくなぁ、という盛り上がりに欠けた印象が否めない。

 

特に問題だと思うのは、中盤に発生し流れが変わる契機になる各国同時爆弾テロが、特に誰の陰謀でもなく、別段背景も語られず、たまたま都合よく発生したテロに過ぎないということだ。

この映画は同性愛や離婚の問題、近年発覚した聖職者による児童への性的虐待など現実の、現代の教会を大きく反映しているのは明らかだし、例えば新型コロナだとか大規模な自然災害だとか、テロの枠でいうなら911ロンドン地下鉄爆破事件のような現実の出来事であれば、映画にポンと放り込んでも別にいいと思うのだけど、別にそんなこともないため、あまりにもご都合主義的な印象が否めなかった。

 

ジェンダー問題の中途半端さ】

 

この映画の中心には、リベラルな価値観を改めて強く打ち出すことにあるのだろう。

同性愛や離婚の容認、イスラム教徒との融和、主人公格のローレンスが「多様性」という言葉を強調したり、悪役の枢機卿がリベラルを冷笑し旧来の価値観へのバックラッシュを声高に唱えることからも明らかだ。

その上で、映画の最後の真実を考えると、最も根底にあるテーマは「教会における女性の扱い」なのだと思う。

同性愛とか中絶とか離婚の容認とか、あれこれ言っても当の教会組織は古代から一貫して男性だけの、世界で最も強固な家父長制社会であり、劇中には多数のシスターが登場するが、彼女らはあくまで業務のサポート役に過ぎず、教会の主だった決定には一切立ち入れない。男性に等しく神に仕えることに人生を捧げていながら、彼女たちは決して聖職者とは呼んでもらえないのだ。

この映画の、性分化疾患であろうベリーニ枢機卿が、公にすれば聖職者として認められないだろう体で教皇となるのは、そういった組織である教会の一つの革命として描いている、のだとは思う。

ただ、なんというか弱い。中途半端な印象は否めなかった。

まず第一に、ベリーニは結局のところ男だというのが大きいだろう。

性自認は男性だろうし、男性としての人生を、疾患が発見されるまでは違和感なく歩んできたのだから。

嫌な言い方をすれば、「教会で男扱いされないかもという体の男がちゃんと男認定してもらえる話」でしかなく、教会における女性の問題とはジェンダーという繋がりこそあれ別物だ。

「女と違ってちゃんと下駄はかせてもらえるもらえる側の性別でよかったね」という図式になりかねないのではないだろうか。

 

現実感を無視してこの映画のメッセージだけに着目するなら、「完全に肉体も自認も女性の人物が、そのことを公にした上で教皇に選ばれる」というストーリーにしなければ筋が通らないのではないだろうか。

もちろんそれは、教会という組織の現状を考えるとあまりにも非現実的な着地なのだろうけど。

教皇に選ばれるという実在の男性社会での成功。女性に焦点を当てること。それをハッピーエンドに持っていくこと。

これら全て成り立たせようとしたせいで、「聞こえのいいことを言っているが中途半端」という印象になったのではないか。

シスターを主人公に、もっと徹底して教会における女性を描くことに注力すればよかったのではないか。

教会というかキリスト教が男尊女卑の差別的な宗教であることは言い逃れの余地なく事実であろう。

これは劇中のリベラル気取り聖職者全て、主人公ローレンスにも何ならベリーニにも言えるが、女性がシスターでしかいられないことを明確に非難していない。

そういう、根幹の女性差別を聖域として守り安住することをあれこれ言い逃れようとする男たちの醜悪さを描けばよかったのではないか。

できないことはないはずだ。ネタは現実の教会が無限に生み出してきたのだから。そこを不快感のない範疇で収めようとするから雰囲気のよさ以上のものがない映画になったのではないだろうか。

半端な覚悟ならドブに捨てましょ。

そういう映画だったと思う。

 

 

 

 

 

 

*1:こういう消費の仕方もまああまりよくないのだろう。