映画『リョーマ!The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』感想
話題になってるので見てきました。フルCGのテニプリ映画。
当然ネタバレありますのでご注意を。
【ストーリー】
アメリカへ武者修行に出かけた越前リョーマは家族旅行に来ていた竜崎桜乃と遭遇。
原作でも登場していたテニスギャングたちに絡まれていた彼女を助けに入り、ギャングたちをラップバトルなど交えながらテニスで圧倒。
しかし、ボールとボールがぶつかった衝撃でリョーマと桜乃は過去にタイムスリップ。
そこでは現役時代のリョーマの父越前南次郎が出場する全米オープンの決勝を数日後に控え、しかし南次郎を勝たせまいとする勢力によって、身内と間違われた桜乃がさらわれてしまう。
桜乃を人質に八百長試合を強いられた南次郎は本来の歴史ではその八百長がきっかけで引退しているらしく(そこでは幼稚園児くらいのリョーマかリョーガがさらわれているっぽいです)、リョーマは父の八百長とそれによる引退を阻止すべく、桜乃を守りながら試合まで敵勢力から逃げ回ることに。
ボールによるタイムスリップだとかミュージカルパートの異様さだとか荒唐無稽な部分は多いながらも、「作中最強キャラ南次郎の引退を阻止する」「全盛期の南次郎に挑戦しようとするリョーマ」という父と子の王道的なドラマに加え、桜乃との恋愛映画(越前リョーマへの印象って正直「まだまだだね」しかなかったんだけど普通に同級生女子にドキドキするんですね)的なテイストも加わって一本の映画としての軸はきっちり整っているのが逆に感心させられた感じ。
意味不明な映画を期待して見に行くとむしろ肩透かしを食らうんじゃないかなってくらい。
【ミュージカル】
ミュージカルはなんか素直に楽しかったです。
多分この映画はいわゆるテニミュが前提にあるんでしょうし、テニミュ自体は見たことないんですけど、CGになっているとはいえ普通に漫画で知っているテニプリのキャラが突然歌って踊りだすの、笑っちゃう一方で「こういう世界なんだな」と割とすんなり入ってきました。いや、原作テニプリはこういう世界じゃないかも知れないけどこの映画はこういう世界だよ多分。見てて楽しいし。
原作で見た時は正直ちょっとキモかった許斐先生作詞の挿入歌『Dear Prince~テニスの王子様たちへ~』も、テニプリオールスターズの歌とダンスでお送りされるとひょっとしていい曲なんじゃないって思わされる。
一番笑ったのはリョーマから時を越えた電話を受けた跡部様で、その時はベッドで毛布にくるまった状態なんですけど、ミュージカルって朗らかな表情で踊りながらのイメージあるじゃないですか、跡部景吾ともなるとベッドに寝っ転がってスマホ片手でもミュージカルできるんですよね。
ところで、原作でリョーマと喋ったことあるかも怪しい柳生がミュージカルパートでリョーマに「お前がテニスの王子様だ」みたいなこと言ってるのは何で柳生って思ったんですけどテニミュでは原作と異なる何かの因縁があったりするんでしょうか。
【テニス】
テニスは正直言うと期待はずれでした。恐竜滅びないし。
テニプリの映画って言われると何かめちゃくちゃ過剰な演出の技が飛び出して対戦相手が吹っ飛んだりコートにブラックホールが発生したり巨大化したりを期待するじゃないですか。今作ではそういうことは起きません。
映画は原作クライマックスのリョーマが全国大会決勝で幸村を倒す場面から始まるんですけど、その時のサムライドライブが作中で一番派手な技でした。
特に、作中最強キャラである南次郎の試合が描かれているのに、絵的には普通にテニスしているだけだし、あり得ない技抜きの普通のテニスシーンとして見てもそんなに見せ方が凝ってるわけでもなくむしろ平坦な印象。CGアニメとしてのCGのクオリティも、そりゃピクサーとかには及ぶべくもないとはいえ2021年に見る映画としてはチープに思われ、視覚的に大満足って感じではなかったなと。
【竜崎桜乃】
越前リョーマへの事前の印象が「まだまだだね」しかないのと同様、竜崎桜乃というヒロインについても「ゼロ年代に2ちゃんでアンチスレが立ちまくっていた」くらいの印象しかないんですが、実際見てみると叩かれるジャンプヒロインの一つのイデアって感じ。
リョーマの本業(?)であるテニスへの貢献は何もないので物語の中でできる仕事がなく、この映画でもただただ守られて足手まといになっている場面が目立ち、容姿がかわいい以外の積極的な魅力を感じられませんでした。
やっぱり、ヒロインに限らず作中それなりに出番があるはずのキャラクターには何かしらの活躍を見せてくれないと魅力的と思うのは難しいのだなあ。(そういう意味で、主人公の本業では特に役に立てない日常サイドのキャラクターながらあれだけ主人公を支えられることに説得力があった火ノ丸相撲のレイナさんは偉大)。
ドラゴンボール人造人間編以降の戦闘力考察
漫画『ドラゴンボール』において戦闘力という概念は有名だが、これが強さの指標になっていたのはサイヤ人編~フリーザ編で、作中での戦闘力の数値化は第二形態フリーザの「戦闘力にしたら100万以上は確実か」という台詞が最後である。
公式の情報で数値化された戦闘力は、ファンブックに掲載されていた超サイヤ人覚醒時悟空の1億5千万が最後で、これ以降のさらなるインフレが数値で表現されることはない。「数字で強さを表すのは一定以上繰り返すと凄みがなくなる」みたいな考えがあったのかもしれない。
今回は、その1億5千万を基準に人造人間編以降の戦闘力を作中描写からのフィーリングで出してみた。
互角と言っていい戦いをしている場合(ベジータは18号に負けているがこれはスタミナ切れであり、万全状態での戦闘力は互角と思われる)は同じ数値、力の差があってもある程度戦えている場合はその範疇で収まるくらいの数値の差にした(ドラゴンボールにおいて、1対1である程度戦うことができる戦闘力差は1.2~1.3倍くらいまでのような気がする。ソースはベジータ対キュイ戦)。
ちなみに似たような考察はブログでもYou Tubeの動画でも無数にあるし、私はYou Tubeを見て自分でも形にしてみることにした。
【人造人間編】
メカフリーザ:1億4千万
コルド大王:1億前後?(フリーザが戦力として当てにしている以上フリーザに近い実力はあると思われるがフリーザを倒したトランクスを「宇宙一強い」と評価している以上フリーザの方が強いのが前提だと思う。第二形態のままでいいんだろうか)
超サイヤ人トランクス:1億8千万(トランクスは超サイヤ人になってから年単位の修行を重ねており、パワーアップしたはずのフリーザを不意打ちとはいえ瞬殺しているなど、超サイヤ人覚醒時の悟空よりは強いと思う)
地球帰還時悟空:1億9千万(トランクスが本気じゃなかったのはたしかだろうがトランクスが冷や汗をかいたことやその後の台詞からすると悟空の方が強そう)
人造人間19号:1億
人造人間20号:1億2千万
19号戦時悟空(心臓病発症):1億3千万
ピッコロ:1億7千万
人造人間18号:2億(ベジータが18号に負けたのはスタミナ切れのせいで、万全時の戦闘力は互角の描写をされている)
人造人間17号:2億3千万
神コロ:2億3千万
初登場セル:1億5千万
再登場セル:3億5千万
人造人間16号:3億5千万
セル第二形態:5億
超ベジータ:7億
セルゲーム時ベジータ、トランクス:8億5千万
セルゲーム時神コロ:7億(これは完全なフィーリングだが、まあそのくらいは強くなっててもええんちゃうと思う)
セルゲーム時悟空:10億
セル完全体:12億
セルジュニア:9億
超サイヤ人悟飯:10億3千万
超サイヤ人2悟飯:15億
パーフェクトセル:14億5千万
【魔人ブウ編】
ダーブラ:12億
青年悟飯超サイヤ人2:13億
魔人ブウ:20億
超サイヤ人3悟空:23億
悪魔人ブウ:30億
超ゴテンクス:30億(超ゴテンクスと悪魔人ブウが互角だったかは正直全然憶えていない。どっちかが優位だったかもしれない)
アルティメット悟飯:55億
ゴテンクス吸収ブウ:70億
悟飯吸収ブウ:125億
超ベジット:200億
純粋悪ブウ:23億
それにしても、超サイヤ人からセル編ブウ編を経て最大戦闘力のインフレ率が140倍(ブウ編は吸収や合体など複数の戦士の戦闘力を束ねる能力が多用されており、単体での最強はアルティメット悟飯であることを考えるとセル編が10倍前後、ブウ編は実質4、5倍程度だろう)程度であることを考えるとやはりフリーザ編の戦闘力インフレ率は異常に思える。超サイヤ人覚醒時悟空の戦闘力はサイヤ人編のボス格であるベジータの1万倍近い。
というか、1億5千万というのがいきすぎではないだろうか。それと善戦できているマックスパワーフリーザも1億は優に越えているだろうし、最初の変身のアップ率が2倍程度なのにその後2度の変身で100倍もアップしているのも何かおかしく思える。
悟空も超サイヤ人になる前から50%のパワーのフリーザを界王拳20倍で一時圧倒できる以上、基礎戦闘力は200万~300万あるのは確実で、死にかけからの回復で9万から20~30倍以上のアップを遂げたことになる。いきなり強くなりすぎ。(いやまあ超サイヤ人に近づいているからとか理由は付けられるんだろうけど)
作中描写からのフィーリングでは、超サイヤ人が1000万くらいでちょうどく思える。マックスパワーフリーザが800~900万であれば2度の変身の伸び率としてそうおかしくないし、フリーザ戦時悟空の基礎戦闘力も25万前後とまあありな範疇で収まる。(これだと基礎戦闘力においてはフリーザに泣かされたベジータの方がはるかに上で、悟空は界王拳のおかげでフリーザと善戦できたことになるが)
しかし、戦闘力5万あるかも怪しいジース相手に流血しているベジータがその後戦闘力18万まで測れるスカウターを破壊していたり、ピッコロがネイルと同化しただけで戦闘力数十倍になったりと、フリーザ編の戦闘力の伸び率はやはりおかしなところが多い。
『映画クレヨンしんちゃん 謎メキ! 花の天カス学園』感想
ロボとーちゃん以来のクレヨンしんちゃん映画を見てきました。当然ネタバレあり。
・あらすじ
小中高一貫のエリート校私立天下統一カスカベ学園、通称天カス学園に体験入学することになったかすかべ防衛隊の面々。
そこではAIが全てを管理していて、学業や部活動、風紀を守っているかどうか等に応じて付与されるポイントの多寡で所属するクラスや利用できる施設まで全く待遇が変わります。
体験入学中に高ポイントを獲得することで特待生としてこの学園に入学すべく、ポイント稼ぎに邁進する風間くんと、風間くんについていけない4人。
しかし、その風間くんは生徒のケツに噛み付くことでその生徒を幼児退行させてしまう謎の怪人「吸ケツ鬼」の犠牲に。
4人は吸ケツ鬼の正体を探るべく、生徒会長の阿月チシオと共に探偵団を結成し捜査に乗り出します。
・クレヨンしんちゃん×ミステリー
全体に非常によくできた作品なんですけど、まず秀逸なのがミステリー部分。
基本子供向けを意識しているであろう『名探偵コナン』も、荒唐無稽な部分は多々あってもまあ現実的な世界観でミステリーをやってるのに対して、クレヨンしんちゃんはコナンより対象年齢の低い、幼児向けのギャグアニメです。
映画は毎回現実離れした組織が登場するし、しんのすけもケツで歩けるし、今作もギャグじゃなきゃあり得ないような要素がてんこ盛り。
この作品がえらいのは、ちゃんとクレヨンしんちゃん映画としてのリアリティラインでミステリーしたことだと思います。
ギャグ漫画がシリアスな展開に突入した結果ギャグだからこそ許されていた設定やキャラクターが鳴りを潜めるみたいなことありますけど、今作では現実にはできるわけがないがギャグだからこそ許されるガジェットを使って犯行もその偽装工作も行われており、犯人にたどり着くロジックやその過程に挟まれるミスリードもクレヨンしんちゃんだからこそであり、きっちり成立しつつもバカバカしくて笑えます。
また、学園ナンバーワンの優等生、ナンバー2のギャル、生物部の野生児、番長……と犯人の疑いがある生徒を一人一人調べていく過程では各キャラが非常に魅力的に描かれていて、ミステリとしてのみならず、今作の最大のテーマである「青春」に厚みを与えるのに大いに貢献しています。
・風間くんの話
今作では風間くんがもう一人の主人公と言っても存在です。
風間くんの基本的な要素として「金持ちの家の子」「勉強ができる」「プライドが高い」というものがあり、エリート校に入学するため必死になるのもその設定に沿ったものではあるんですが、今作ではその根幹にある動機として
「今のみんなで同じ学校に入りたい。ずっと一緒にいたい」
「お受験でみんなと離れ離れになってしまうのが嫌」
という気持ちが描かれます。
みんなと一緒にいたいがための焦りがみんなとの断絶を生む展開になり、最終的には色々あってしんのすけと直接対決をすることになるんですが、今作では風間くんのこういった悩みに対して「みんなずっと一緒」みたいな結論は出しません。
風間くんはお受験をして私立の小学校に入るんだろうし、結果疎遠になってしまう可能性も否定しない。
しんのすけが風間くんに訴えた「先のことなんてわからないぞ」みたいな台詞は、実際幼稚園児だから将来どうなるとか考えてないのもあるんでしょうけど、メタ的には、たとえ将来疎遠になるとしても今ここにある友情が否定されるわけじゃない、現在の輝きは未来の結果によって損なわれないというメッセージでもあり、それは今作テーマの「青春」とも合致してるように思いました。
・総評
まあ、僕は青春青春言うの嫌いなのでテーマがすごく胸に響いたかって言うとそうでもそうないんですけど、それでもこの作品がものすごくよくできていることは疑いようがありません。
今作オリジナルキャラを多数出しながらその誰もが十分に掘り下げられ、いつものキャラクターであるかすかべ防衛隊もいっそう魅力的になるようなエピソードが与えられています。
エリート校の上から下まで個性豊かなキャラクターを描いたからこその、最後の「青春」が人それぞれであることや、そのどれもが無駄にはならないというメッセージも美しくまとまったんじゃないでしょうか。
クレヨンしんちゃん映画は半分も見ていないので全体での位置付けはわかりませんが、出した要素を綺麗に活かしきった、ウェルメイドな映画という指標ではこれ以上がそうそうある気はしないかな。
『OLD』(M・ナイト・シャマラン/2021)
シャマラン監督の最新作『OLD』の感想記事。当然ネタバレを含みます。
仲良し姉弟と優しい両親という理想的な家庭に見えて両親の仲が冷え切っている主人公ファミリー。両親は離婚を考えており、子供たちに切り出す前の最後の思い出にと家族旅行に出かけます。
ホテルの支配人から案内されたビーチへ他の何組かの客と共に赴き、最初はごく普通に海水浴を楽しんでいたもののすぐこのビーチの異常さに気づくことに。
それは、「このビーチでは人体の時間が1年/30分の速度で進む」というもの。
1、2時間で年単位の成長を遂げる子供たちに始まり、すでに成長を終えている大人にも老化や持病の急激な進行という形で変化が現れます。
老化の力の発生源と思しき岩に退路を阻まれ、脱出不可能のまま彼らは老いて死んでしまうのか……というサスペンス。
・わかりやすいエンタメ作品
個人的にはシャマラン監督にそこまでいいイメージがなく、予告に惹かれはしたもののあまり期待はしてなかったんですが、何か80点くらいの映画というか、よくも悪くもストレートにエンタメな作品だなと。
まず、超スピードで老化し、子供たちも一日あれば中年に、さらに半日経てば老衰死確実というわかりやすくかつ斬新な危機設定。
怪物に襲われるとか災害に見舞われるみたいな物理的脅威ではなく、ビーチから出られないキャラクターがそこにいるまま、精神の追いつかない速度で変化を遂げていく様を眺めることができます。
特に変化が顕著なのはやはり子供たちで、主人公一家の男児とよその家の娘がテントに入っているうちに思春期を迎え、性知識もないまま「子作り」に及んだ結果妊娠した状態で両親の前に現れ、時の加速は胎児にも及ぶため数分で出産という恐ろしい状況はこの映画じゃなければ見られないでしょう。
パニックから殺し合いになったり、強引に脱出を図ったキャラクターが死亡したり、無関係に思われる自分たちに共通点を発見、このビーチへと案内したホテル側の意図を考察したりと、とにかく見る側を飽きさせません。
絶体絶命の状況下で離婚するはずだった夫婦が自分たちの絆を再確認する、大人の体にされてしまった子供たちが、大人の頭脳になったことで脱出手段を探るなどエンタメ的な軸もはっきりしています。
ラストもハッピーエンドというには人が死にすぎだけど一定の救いがあり、後味の悪さはありません。
・「そこそこ止まり」感
だから決してつまないということはなくそこそこに楽しめる作品だと思うんですけど、難点としては設定以上の刺激がないことかな?
時間が速くなるビーチという状況設定は魅力的なんですけど、そこから飛躍できてないというか、劇中で発生する出来事が設定を聞いたときに想像する域を出てないんですよね。もっとめちゃくちゃヤバい転がし方をしてほしかった。
このビーチの真相もまあそうって感じで、成立はしてるし文句があるわけじゃないけど、全体に小さくまとまったな、という印象。
良くも悪くも普通、大人しい感じの映画で何だかもったいなかったかな。
なぜ主人公は現実に向き合ってしまうのか
※この記事には先日ガガガ文庫より刊行されたばかりの『夏へのトンネル、さよならの出口』の結末についての重大なネタバレがありますのでこの先を読む方はそのことをご了承ください。
「ウラシマトンネルって、知ってる? そのトンネルに入ったら、欲しいものがなんでも手に入るの」
「なんでも?」
「なんでも。でもね、ウラシマトンネルはただでは帰してくれなくて――」
海に面する田舎町・香崎。
夏の日のある朝、高二の塔野カオルは、『ウラシマトンネル』という都市伝説を耳にした。
それは、中に入れば年を取る代わりに欲しいものがなんでも手に入るというお伽噺のようなトンネルだった。
その日の夜、カオルは偶然にも『ウラシマトンネル』らしきトンネルを発見する。
最愛の妹・カレンを五年前に事故で亡くした彼は、トンネルを前に、あることを思いつく。
――『ウラシマトンネル』に入れば、カレンを取り戻せるかもしれない。
放課後に一人でトンネルの検証を開始したカオルだったが、そんな彼の後をこっそりとつける人物がいた。
転校生の花城あんず。クラスでは浮いた存在になっている彼女は、カオルに興味を持つ。
二人は互いの欲しいものを手に入れるために協力関係を結ぶのだが……。(内容紹介より引用)
妹を生き返らせて人生をやり直したいカオルくんと、特別な存在になりたい花城さん。物語の終盤、カオルは漫画家になる夢を抱く花城を外に残しウラシマトンネルを進んだ結果、死んだはずの妹と再会を果たすのですが。
ウラシマトンネルの真の特性は『失くしたものを取り戻せる』だ。だからこそ僕はカレンに会うことができた。誰かを愛する資格だって得た。だけど知らぬ間に取り戻していたものが他にもあった。
『現実と向き合う力』 だ。
辛い過去を受け止め今を生きること。それは一〇歳で時が止まったカレンの存在と矛盾している。だから、どちらか片方を選ぶ必要があった。
八目迷. 夏へのトンネル、さよならの出口 (ガガガ文庫) (Kindle の位置No.3291-3294). 株式会社小学館. Kindle 版.
そういうわけでカオルは現実を選び、トンネルを抜けた先の未来(内部で時間が遅く流れるウラシマ効果により、迎えに来た花城と外に出た時は十三年後)へと辿り着き、花城と未来を生きていきます。
あー、うん、はい、現実と向き合う力……はいはい、大事だよね、うん。
何? 「最近のライトノベルの流行りと対立するテーマ」って、「現実逃避の異世界転生とはちがう」的な?
【ブログ更新】
— ガガガ文庫 (@gagaga_bunko) July 20, 2019
7/18刊行
『夏へのトンネル、さよならの出口』https://t.co/OYAkqx8PBo
この物語で描かれるテーマは、昨今のライトノベルの流行りとは対立するものかもしれません。けれど、それでもこの作品を通して伝えたいことでした。一人でも多くの人にこの物語が読まれることを願っています! pic.twitter.com/njphUvgXQL
いや、外での人生をスパッと切り捨ててトンネルが生み出す幻想の世界に浸ることを選ばれるのもそれはそれで物語として乗れるかって言ったらアレなんですけど、何でしょうね……。この「ああ、うん」みたいな。
別にこの作品に限らず色々ですけど、あるじゃないですか。
例えばラスボスの計画が成就するともらされる理想的な非現実への誘惑を振り切って「それでも俺たちは現実を選ぶぜ!」みたいな、ああいうの。現実こそリアル。
「現実」は、不本意な現状全般と言い換えられますし、もっと具体的な事例を挙げていけば、自分の容姿や能力、人間関係、避けられない老いや別れ、卒業、そして死はフィクションの「現実」筆頭と言えるでしょう。これが限りある命の力。
何らかの問題に立ち向かい乗り越えるというのは王道のように見えて、「決して変えてはならないものがある」と言わんばかりに、主人公たちは一度否定した「現実」に回帰させられます。
もちろん、だいたいの場合否応なく従わされるのではなく、否定した現実に改めて価値を見出し、ポジティブな気持ちで前に進むんですけど、でも「現実」に全然ポジティブになれない読者の一人としては思うんですよね。「そんなに現実が好きか?」と。
我々現実の人類はどれだけ技術が進もうと不老不死どころか恐らく二百年生きるのも無理でしょうし、超解像度・自由度のVRも僕が生きているうちにはまず完成しないでしょう。
だから、不老不死も完全な仮想世界も酸っぱい葡萄かも知れない。
でもフィクションなわけじゃないですか。漫画アニメゲーム小説映画その他諸々は。
何でもありだし、実際「現実」を選んじゃう作品は多くの場合「理想的な非現実」を選べる余地を与えられている。手が届く葡萄なんですよ*1。
まあ、多くの作品がそういう着地になる背景は察しがついて、「現実」の上位互換と言える世界をフィクションの中で描いて主人公たちがそれを選ぶというのは多くの消費者にとって気持ちよくないからでしょう。フィクションは現実じゃないけど現実の人間のためのものだからね。自分たちは逃げられないものから逃したくないよね。
最初の方で言った通り、僕も現実の他者をスパッと忘れて仮想現実に耽溺する主人公というエンディングを実際にやられたらモヤモヤするでしょうし、だから『夏へのトンネル』もテーマ面ではあれが無難は無難なんだろうなとは*2。
それでも、そういう自分まで含めて腹立たしいのは事実だし、祈ってしまうんですよね。都合の悪い「現実」をスパッと切り捨てて、フィクションじゃなきゃあり得ないようなマジカルパワーで努力せず何の制約もなく最強になり勝ちまくりモテまくりで不老不死にもなる……そんな主人公がどこかにいて欲しいって*3。オタクは祈りが好き。
現実を肯定しないという意味では、「何でも願いが叶う」に限界はあれど猿の手だとか特段のデメリットも設けず死人をバンバン生き返らせ「死」をコケにしてしまう『ドラゴンボール』はえらいのかもしれないね。
映画の結末は現実に立ち向かってると思いました。好きです。
記事との関係は特にないけど小説です。
『劇場版シティ・ハンター〈新宿プライベート・アイズ〉』感想
「劇場版シティーハンター <新宿プライベート・アイズ>」本予告第二弾 | 2019年2月8日(金)全国ロードショー
美女には目がない凄腕の掃除屋・冴羽獠が新宿で悪を狩る「シティ・ハンター」。
80年代後半の作品ですが今作の舞台は2019年、新宿駅の伝言板は撤去されて久しく、スマホアプリを使ってARで表示される伝言板に「XYZ」を記入することで依頼できる、という現代仕様に。
なんですけど、本編の感想は「昭和」「バブル」の一言。
美女を見るとセクハラを働くけどいざとなったら無敵という冴羽獠の造形自体もう時代を感じさせるし現代で見るとセクハラや言動全体が普通にキツいし劇中でも「時代の空気読まんかーーい」と制裁されていた(それでもやめなかったけど)んですけど、そこに限らず、全体のノリに隔世の感が甚だしいっていうか。
舞台は現代の新宿で登場人物も皆スマホユーザーだし背景も見覚えのある新宿の町並みで、その中で冴羽獠は平然と銃を所持して銃撃戦を繰り広げ、そのことについてお咎め無しだわそんなに金が入るとは思えないのにワンフロアありそうな部屋に住んでいるわ、「ねーよ」という気持ちが先立ちすぎる。
後半では武器商人が自社の戦闘用ドローン兵器を売り込むべく新宿を戦場にしようとたくらむ……みたいな感じになるんですけど、冴羽獠も仲間の海坊主も、遮蔽物もない場所を機銃掃射から走って逃げて一発も当たらない。いや、昔のアニメではこういうの当たり前だったかも知れないけど。
現代になるほどフィクション全体に求められるリアリティラインの水準がどんどん上がってるのは感じるけど、この映画は完全に当時のまま。
非現実的とかとはまた別だけど、Tシャツの袖をまくってノースリーブにしてるファッションとか、登場する「美女」の造形とか、センスがとにかくバブリー。
(一番笑ったのは、ゲストで登場したキャッツアイのファッションですかね)
もとが何十年も前の作品と言えばルパンなんかもそうなんでしょうけど、あっちはTVスペシャルとかを見るとちゃんと現代ナイズしたものを出してきてると思うので、シティ・ハンターの古さは普通にダサく見えてしまう。
あと、単純にエンタメ的なケレン味もなくて、敵組織の持ち出してくるのが「脳からの信号で直接操縦できるドローン兵器」なんだけど、従来の操縦方法に比べて何が優位なのか全然わからない。冴羽や海坊主に対しては数の優位で苦戦させてるだけだし。
操縦者であるIT社長は遠隔地で切れ散らかしてるだけで、冴羽たちは謎の主人公補正で無敵状態のまま機械と戦ってるだけなので緊張感も盛り上がりもないし、絵的にも面白くないし。
似たようなところのあるルパンとかコナンとか、荒唐無稽でもちゃんとケレン味やテンポ、アクションで見せてくれている中、これは現代では通じないものをそのまま出してきていて、なんか、せっかく作るならもっとちゃんとやれよって感じの映画でした。
当時のままのシティ・ハンターを見たいって人ならともかく、普通に面白いものを楽しみたい人は見ない方がいいと思います。
『アクアマン』(ジェームズ・ワン/2019年)感想
映画『アクアマン』日本版本予告【HD】2019年2月8日(金)公開
滅亡したと思いきや海中に適応して繁栄していたアトランティスの王女と地上の灯台守の男との間に生まれた男・アーサーことアクアマンが主人公。
『ジャスティス・リーグ』でバットマン達と共闘した後、潜水艦を襲う海賊をやっつけたりして海のヒーローとして噂になっていた彼ですが、そこに、海の覇権を握り地上制服も目論む弟・オームの魔の手が伸びてきて、彼を打倒してアトランティスの王になって欲しいと望まれたアーサーは……みたいなあらすじ。
この映画で特筆すべきは映像面での楽しさ。
アクションとかCGが凄いのはアメコミヒーロー映画なら当たり前なんでしょうけど、この映画は画面がものすごく華やかです。
これは個人的な印象なんですけど、MARVELにせよDCにせよアメコミヒーロー映画ってなんか画面が暗い(ことが多い)気がするんですよね。話の内容とはまた別に。
そこへいくとこの映画は、伝説の武器トライデントを探す過程で訪れたシチリアの港町から海中世界まで、やたら色彩が明るい場面が多かったように思います。
また、戦闘では妙に動きがアニメ的なコミカルさがあったり海中では魚人からサメに海竜に喋る甲殻類に多種多様な海洋生物が入り乱れたりでなんとなくディズニー映画みたいな雰囲気もあります。
Twitterでもけっこう目にした感想で実際に見て自分でも笑ったんですけど、この映画は絵面が硬直しかけると即座に爆発が起こって展開が加速するので目が飽きません。
今まで見たアメコミヒーロー映画の中でも「映像の楽しさ」は一番だと思いました。
一方で難点もあって、この映画はテーマがおざなりじゃないなかなと。
当初は王座につくことを拒んでいたアーサーが弟に破れ、成長し、王としての使命に目覚め、真の王となる王道のストーリーなんですけど、そのあたりがふわっとしているっていうか、アーサーがなぜ「真の王」足り得るのかみたいなのが見ていて感じられませんでした。
真のアトランティス王の証であるトライデントを引き抜けるか、みたいな試練があって、アーサーは抜くことに成功するんですけど、「なんで抜けたのか」もよくわからない。
作中で言うところの王とはどういう者が相応しくてアーサーなら何故なれるのか、というのがはっきり示されてないので、彼が王になることに特に乗れないんですよね。
同じく「王」がテーマのヒーロー映画、『ブラックパンサー』では主人公のチャラがワガンダ国王としては立派ながらも世界に対しては排他的で、その歪みに父親を奪われた復讐者・キルモンガーに王位を追われる……と明確な問題提起を持ったストーリーになっていて、だからキルモンガーを倒した後、もうそういった歪みを生まないよう、世界の平和のためにも尽くす新たな方針を打ち出すラストにカタルシスがありました。
作中で「王は国民のために戦うだけ。みんなのために戦うヒーローになって」と望まれるシーンがあるんですけど、それを具体的な形で示している『ブラックパンサー』に比べるとやっぱりこの映画は物足りないなと。
『ブラックパンサー』は政治性が鼻につくと言われるしそこまでテーマを押し出す必要はないのかも知れないけど、作中のロジックがちゃんとわからないと映像面で凄くてもやっぱりそのカタルシスに素直に乗れないから、そこはかっちりしてほしかった。