なぜ主人公は現実に向き合ってしまうのか
※この記事には先日ガガガ文庫より刊行されたばかりの『夏へのトンネル、さよならの出口』の結末についての重大なネタバレがありますのでこの先を読む方はそのことをご了承ください。
「ウラシマトンネルって、知ってる? そのトンネルに入ったら、欲しいものがなんでも手に入るの」
「なんでも?」
「なんでも。でもね、ウラシマトンネルはただでは帰してくれなくて――」
海に面する田舎町・香崎。
夏の日のある朝、高二の塔野カオルは、『ウラシマトンネル』という都市伝説を耳にした。
それは、中に入れば年を取る代わりに欲しいものがなんでも手に入るというお伽噺のようなトンネルだった。
その日の夜、カオルは偶然にも『ウラシマトンネル』らしきトンネルを発見する。
最愛の妹・カレンを五年前に事故で亡くした彼は、トンネルを前に、あることを思いつく。
――『ウラシマトンネル』に入れば、カレンを取り戻せるかもしれない。
放課後に一人でトンネルの検証を開始したカオルだったが、そんな彼の後をこっそりとつける人物がいた。
転校生の花城あんず。クラスでは浮いた存在になっている彼女は、カオルに興味を持つ。
二人は互いの欲しいものを手に入れるために協力関係を結ぶのだが……。(内容紹介より引用)
妹を生き返らせて人生をやり直したいカオルくんと、特別な存在になりたい花城さん。物語の終盤、カオルは漫画家になる夢を抱く花城を外に残しウラシマトンネルを進んだ結果、死んだはずの妹と再会を果たすのですが。
ウラシマトンネルの真の特性は『失くしたものを取り戻せる』だ。だからこそ僕はカレンに会うことができた。誰かを愛する資格だって得た。だけど知らぬ間に取り戻していたものが他にもあった。
『現実と向き合う力』 だ。
辛い過去を受け止め今を生きること。それは一〇歳で時が止まったカレンの存在と矛盾している。だから、どちらか片方を選ぶ必要があった。
八目迷. 夏へのトンネル、さよならの出口 (ガガガ文庫) (Kindle の位置No.3291-3294). 株式会社小学館. Kindle 版.
そういうわけでカオルは現実を選び、トンネルを抜けた先の未来(内部で時間が遅く流れるウラシマ効果により、迎えに来た花城と外に出た時は十三年後)へと辿り着き、花城と未来を生きていきます。
あー、うん、はい、現実と向き合う力……はいはい、大事だよね、うん。
何? 「最近のライトノベルの流行りと対立するテーマ」って、「現実逃避の異世界転生とはちがう」的な?
【ブログ更新】
— ガガガ文庫 (@gagaga_bunko) July 20, 2019
7/18刊行
『夏へのトンネル、さよならの出口』https://t.co/OYAkqx8PBo
この物語で描かれるテーマは、昨今のライトノベルの流行りとは対立するものかもしれません。けれど、それでもこの作品を通して伝えたいことでした。一人でも多くの人にこの物語が読まれることを願っています! pic.twitter.com/njphUvgXQL
いや、外での人生をスパッと切り捨ててトンネルが生み出す幻想の世界に浸ることを選ばれるのもそれはそれで物語として乗れるかって言ったらアレなんですけど、何でしょうね……。この「ああ、うん」みたいな。
別にこの作品に限らず色々ですけど、あるじゃないですか。
例えばラスボスの計画が成就するともらされる理想的な非現実への誘惑を振り切って「それでも俺たちは現実を選ぶぜ!」みたいな、ああいうの。現実こそリアル。
「現実」は、不本意な現状全般と言い換えられますし、もっと具体的な事例を挙げていけば、自分の容姿や能力、人間関係、避けられない老いや別れ、卒業、そして死はフィクションの「現実」筆頭と言えるでしょう。これが限りある命の力。
何らかの問題に立ち向かい乗り越えるというのは王道のように見えて、「決して変えてはならないものがある」と言わんばかりに、主人公たちは一度否定した「現実」に回帰させられます。
もちろん、だいたいの場合否応なく従わされるのではなく、否定した現実に改めて価値を見出し、ポジティブな気持ちで前に進むんですけど、でも「現実」に全然ポジティブになれない読者の一人としては思うんですよね。「そんなに現実が好きか?」と。
我々現実の人類はどれだけ技術が進もうと不老不死どころか恐らく二百年生きるのも無理でしょうし、超解像度・自由度のVRも僕が生きているうちにはまず完成しないでしょう。
だから、不老不死も完全な仮想世界も酸っぱい葡萄かも知れない。
でもフィクションなわけじゃないですか。漫画アニメゲーム小説映画その他諸々は。
何でもありだし、実際「現実」を選んじゃう作品は多くの場合「理想的な非現実」を選べる余地を与えられている。手が届く葡萄なんですよ*1。
まあ、多くの作品がそういう着地になる背景は察しがついて、「現実」の上位互換と言える世界をフィクションの中で描いて主人公たちがそれを選ぶというのは多くの消費者にとって気持ちよくないからでしょう。フィクションは現実じゃないけど現実の人間のためのものだからね。自分たちは逃げられないものから逃したくないよね。
最初の方で言った通り、僕も現実の他者をスパッと忘れて仮想現実に耽溺する主人公というエンディングを実際にやられたらモヤモヤするでしょうし、だから『夏へのトンネル』もテーマ面ではあれが無難は無難なんだろうなとは*2。
それでも、そういう自分まで含めて腹立たしいのは事実だし、祈ってしまうんですよね。都合の悪い「現実」をスパッと切り捨てて、フィクションじゃなきゃあり得ないようなマジカルパワーで努力せず何の制約もなく最強になり勝ちまくりモテまくりで不老不死にもなる……そんな主人公がどこかにいて欲しいって*3。オタクは祈りが好き。
現実を肯定しないという意味では、「何でも願いが叶う」に限界はあれど猿の手だとか特段のデメリットも設けず死人をバンバン生き返らせ「死」をコケにしてしまう『ドラゴンボール』はえらいのかもしれないね。
映画の結末は現実に立ち向かってると思いました。好きです。
記事との関係は特にないけど小説です。