『哭声/コクソン』(國村隼/2017)
韓国産ホラー映画。10年代後半のオタクだから韓国映画見んとな~っていう一連のアレと、あと白石晃士監督作品っぽいみたいな評判を聞いていたので見ました。
感想としては、「わからない」に尽きるでしょうか。
「疑え。惑わされるな。」というキャッチコピーの通り、この作品は真相(誰が村での惨事の元凶で、どういった勢力図で進行していたのか、またそれぞれの行為の意図は何か)をはっきりと語らないまま終わっています。
一応ラストからすると、謎の日本人が「悪魔」で、祈祷師の男は日本人に味方し、主人公に助言めいたことをしていた謎の女はそれに敵対する存在なのかなとはまあ思えるのですが、「中盤の祈祷シーンで日本人がガチで苦しんで死ぬ寸前だったのは何なんだよ」とか「主人公たちからガチで逃げ回ってたのは何なの」とか「毒キノコは何だったんだ」「女は主人公を家に戻らせたら終わりだってならなんか変なパワーあるんだから力づくで止めろよ」など納得のいかないことばかり。
で、自分一人では何もわかりそうになかったんですけど、こういった情報が。
『哭声』、端的に言っちゃうと白い女は○○○○○○○○○○○○○○○○○○○、國村準は○○○○○○○○○○○○○○○って監督が海外のインタビューで答えているらしい。 https://t.co/s0XtzElqbo
— Endless Anniversary (@tori_555) 2017年12月22日
これらの解釈を見るとある程度納得いかないこともないです。それでもいや……と思う部分は多々あるけど。
最近いくつかの作品に触れてみて思うのは、「自分は『わからない』作品が嫌い」ということでしょうか。他にも嫌いになる要素は多々あるけど一番ストレスを感じるのがこれのような気がします。
「わからない」≒「頭を使わされる」と言ってもいい。
作中で起きていたことの真相は、別にどうでもいいようなことでない限り作中で明示して欲しいし、明かされることによってそれまでの不可解な部分にきちんと納得がいくものであって欲しい。
また、そこまでの情報や論理の流れはふつうに見ているだけで(自分にとって)十分に把握できる程度の複雑さに留めて欲しい(それか『シン・ゴジラ』の専門用語みたいに言ってることはよくわからなくても雰囲気で流れがわかるようにするとか)。
哭声は「神は本当にいるのか?」という話でもあるので、ワザと劇中で説明しなかったり全ての事に辻褄が合うように作っていないのは意図的にやっていることです。(神のやる事は人には図れないし人の問いにも答えてくれないので)
— Endless Anniversary (@tori_555) 2017年12月22日
こういうことらしいので、僕が納得できないのもまあ意図的なものであり、それをそういう意図として汲んで作品の良さと思えなきゃこの映画は楽しめないのかも知れませんね。not for meってやつ?
でも愚痴らせてもらうと、映像がかったるすぎるし2時間半も使うのは無駄に長過ぎるでしょ……。こんなん集中して見てらんないよ。